野尻城井戸跡は、宮崎県小林市にあった野尻城の井戸跡です。
現在は農地と山林になっていますが、井戸跡が整備され市指定の史跡になっています。
野尻城の歴史
野尻城の築城年代は定かでありませんが、南北朝時代には存在していたと推測されています。
天文年間 (1532~1555年)には、 伊東氏の所領となり、伊東氏 48 城のひとつに数えられています。
このとき、伊藤氏の家臣である福永氏の居城としました。
1576年、島津氏が高原城に進出したことにより、野尻城は最前線の城となります。
このとき島津勢が、 福永氏は島津に内通しているという偽の落し文を佐土原城下にばらまいています。
これを信じた伊藤義祐は、福永氏を遠ざけるようになります。
1577 年 福永氏はやむなく島津氏傘下に入ることになりました。
1615 年には、 一国一城令により廃城となっています。
廃城後の井戸
野尻城には旧城と新城があり、 現在旧城は山林に帰り、新城は農地になっています。
新城の井戸跡が、 史跡として整備されています。
井戸は、野尻城が廃城となったあとも周辺住民の生活用水として使われていました。
ところが、江戸時代の中頃、 この井戸を利用する住民の間で、原因不明の疫病が広がっています。
井戸水に何らかの毒が含まれているということを疑い、井戸は閉鎖されました。
封印された井戸
井戸を閉鎖した後も、住民の間で疫病の流行は止まなかったといいます。
しかし、井戸水は住民にとって生活に欠かせず、住民はこっそり水を汲みにきていました。
疫病は一向に収まらず原因もわからないままでした。
そのため、住民は自警団をつくり井戸の監視をはじめます。
あるとき、 女性と女の子2人が水汲みにきたため、現場をおさえられます。
3人は井戸水を生活用水に使っていたことを認めますが、 疫病には感染していませんでした。
住人たちは、井戸水を使って3人が疫病を広めていると思い込み、厳しい拷問の末殺害してしまいます。
その後遺体を井戸に投げ込み、 鉄格子と南京錠で井戸を封印してしまいました。
井戸跡の伝説
しばらくすると感染状況はさらに悪化、集落の半数が命を落としています。
住民たちは、 まだ井戸水を汲み上げるものがいると考えました。
井戸へ向かうと、 やはり鉄格子と鍵が壊されていました。
そのため監視を再開、 その夜監視役だった15名のうち14名が行方不明となります。
現場に残る1名は、 錯乱状態で井戸から這い出てきた女性の話をしますが、夢でもみたのだろうと誰もまともに取り合いませんでした。
結局、14 名の行方不明者は見つからずじまいで、疫病の原因も不明なままだったといいます。
現在の井戸跡
野尻城井戸跡では次のようなうわさがあります。
- 井戸をのぞき込むと、井戸の奥から覗く女性と目が合った
- 女性が井戸から這い上がってきた
- 女児が井戸をのぞきこんでいた
井戸内の遺留物や水質は現在も調査されておらず、不明のままです。
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