八代市の河童像

河童像 日本初のガラッパ渡来地は八代の歴史上の重要ポイント

河童像というのは、熊本県八代市の河童渡来地にあるガラッパの像のことです。

八代市の河童像

腰を下ろして飲酒中の巨大ガラッパが堪能できる、珍スポットとなります。

ガラッパ伝説

八代札の辻 河童像

八代には河童渡来の伝説があります。

八代札の辻 河童像

時は古墳時代、中国から「九千坊(きゅうせんぼう)」という河童の親分が、文字通り9000匹の河童を引き連れてやってきました。

薩摩街道十一里木の河童像

そして、そのままこの地に住み着いたのだとか・・・

薩摩街道十一里木の河童像

日本初のガラッパ渡来の地でということで、大きなガラッパ像が座っています。

河童像の胸部

ちなみにガラッパとは、標準語でいうカッパのことで、九州南部ではガラッパとよんでいます。

八代の河童像の後ろ姿

徳渕の津跡

徳渕の津跡 前川の上流側

このあたりは、中世以前から船着場や荷揚げ場があり、港としてにぎわっていました。

徳渕の津跡 正面の景色

徳渕の津という名前は、「徳=財宝」、「津=港」からついています。

徳渕の津跡 前川の下流側

現在は前川の河口は5㎞ほど先ですが、干拓前はもうすぐそこに不知火海が広がっていました。

以前の徳渕の津跡

麦島城

河童渡来の碑

1588年、時の領主・小西行長は、重臣小西行重に命じ、球磨川の北岸に八代城を築城させています。

河童渡来の碑

1619年、大地震によって倒壊し、新たに八代城(松江城)が建てられたため、現在は、麦島城跡とよび区別しています。

徳渕の津跡 前川の上流側

徳渕の津は、豊臣秀吉の直轄港となり、南蛮貿易の拠点となります。

徳渕の津跡 前川の下流側

麦島城は単なる小西氏の支城だけではなく、豊臣政権下における有力城郭として機能していました。

徳渕の津から見た札の辻の河童像

札の辻

札の辻石碑とカッパ像

徳渕の津跡近くには、札の辻がありました。

札の辻石碑とカッパ像

札の辻というのは、街道など人通りが多い場所に、幕府や藩からのお触れを掲示した場所のことです。

薩摩街道十一里木の河童像

お触れの掲示板を高札とよんだことから、「高札場」(こうさつば)ともいいます。

薩摩街道十一里木の河童像

薩摩街道十一里木跡

薩摩街道十一里木の標柱

薩摩国の殿さまが参勤交代で江戸へ向かう際、肥後国に入り熊本を目指した道を、薩摩街道といいます。

徳淵の津跡の標柱

熊本城下の新町札の辻を起点に、一里(4㎞)ごとに木を植え目印としていました。

徳淵の津跡銅像

八代札の辻は十一里木、つまり熊本の新町札の辻から44㎞地点です。

徳淵の津跡 九千坊の碑

参勤交代はもちろん、街道を旅する人々の目印となっていました。

徳淵の津跡 九千坊の碑

場所 熊本県八代市本町2丁目6

八代の九千坊の碑

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