国立療養所宮崎病院附属看護学校というのは、かつて宮崎県川南町にあった国立専修学校です。
学校施設は、名称の通り国立療養所宮崎病院の敷地内に同居していました。
独法移行で再編
2004年(平成16年)に、国立病院・療養所は、独立行政法人国立病院機構へ移行しています。
こののち、附属看護師養成所は人員の集約を図るため再編成されることになります。
各都道府県1校に再編する方針のもと、同一県内の施設については大型校を優先しています。
宮崎県では、国立都城病院附属看護学校のみが存続することになりました。
※現在の名称は、独立行政法人国立病院機構都城医療センター附属看護学校です。
国立病院機構宮崎病院付属看護学校は、2006年(平成18年)に学生募集を停止し、2007年(平成19年)に閉校しています。
軍都川南
戦前、国立療養所宮崎病院のある唐瀬原(からせばる)台地は、陸軍軍馬補充部の牧場でした。
様子が一変したのは大戦中です。
1941年(昭和16年)に、陸軍の落下傘部隊が満州から新田原基地へ移ります。
すると、唐瀬原台地には降下場が整備されることになります。
さらに、滑走路や司令部、戦車隊、通信隊、陸軍病院などがわずかの期間で整備されました。
唐瀬原一帯には4連隊が駐屯し、一瞬の間に軍都と化しています。
空挺落下傘部隊の降下訓練が毎日のように見られたといいます。
空の神兵
終戦後、広大な軍用地は入植者に開放され、農地開拓がすすみます。
現在は農業の町となった川南に、軍都の面影は微塵もありません。
唯一の戦争遺構である給水塔が、国立宮崎病院の敷地内に残ります。
給水塔は、第3連隊つまり空挺部隊が使っていたものです。
スマトラで活躍した空挺部隊は「空の神兵」と称えられます。
しかし、戦局の悪化にともない、レイテ島、ルソン島、沖縄などで多くの隊員が犠牲となっています。
唐瀬原で訓練した空挺隊員は、延べ12,000人といわれていますが、うち10,000人が英霊となったとされます。
戦後、英霊は川南護国神社に祀られています。
関連記事
【関連記事】九州南部の戦争遺構 大戦を後世に伝える物証 まとめ
【関連記事】遺構めぐりが楽しくなる本 いまそこにある建物の目的と背景