百済来(くだらぎ)村とは、現在の八代市坂本町にあった村です。
新八代市合併以前の坂本村は八代郡にありました。
しかし、坂本村発足以前の百済来村は葦北郡の村でした。
百済来村役場
合併により坂本村となる前の、百済来村の旧庁舎のことです。
おそらく1922年(明治22年)ごろの建物だと思われます。
現在は、八代市農業協同組合坂本支所として使われている、現役の建物です。
しかし、その外観は明治時代の、役所的な建物として目に止まります。
私も、この建物を見る目的で訪れたのではありません。
道沿いに目を引く建物があったため、思わず立ち寄ってしまいました。
葦北郡から八代郡へ
百済木村は、現在の八代市坂本町の地名だと、「百済来上」「百済来下」「田上」「鶴喰」「川岳」にあたります。
八代市の最南西部に位置しています。
葦北郡であれば最北東部です。
1889年(明治22年)、小川内村、久多良木村、田上村、鶴喰村、川岳村が合併して百済来村となりました。
この時は、葦北郡百済来村でした。
1961年(昭和36年)、百済来村は、上松求麻村、下松求麻村と合併しました。
上松求麻村、下松求麻村は八代郡でしたので、郡境をまたいだ町村合併だったのです。
発足した新村は、八代郡坂本村となりました。
人口
1960年(昭和35年)の国勢調査によれば、百済来村の人口は3,644人でした。
1961年(昭和36年)、3村合併した直後の坂本村は、人口が18,000人を超えていました。
しかし、1988年(昭和63年)の西日本製紙坂本工場の閉鎖などで、人口が急速に減少しました。
2005年(平成17年)、八代市に合併時には、坂本村の人口は6,000人弱になっていました。
2017年(平成29年)には、4,000人を切っています。
百済来村
村名の由来は、大昔6世紀に朝鮮半島にあった百済の王に仕えた日本人、日羅(にちら)なる人物にあるようです。
どうやら、この方の父は、 国造刑部靭部阿利斯登(ゆげいべのありしと)といって、このあたり出身の武士だったようです。
日羅は百済で、極めて高い官位を与えらえた官僚でした。
583年、天皇から要請で日本に帰国し、朝鮮半島政策を担当しました。
内容は 国民生活の安定と富国強兵の計だったようです。
しかし、百済には、九州の防御を固めることや、百済を支配下に置く方策などを進言していると思われてました。
そして、日羅が百済を裏切るとの誤解により、百済からの随行役人によって難波で暗殺されてしまいます。
後に、出身地の葦北に移葬されたとされています。
百済来は「久多良木」と表記される場合もあります。
これは、百済来(くだらぎ)の音を当てた文字と考えられています。
関連記事
【関連記事】遺構めぐりが楽しくなる本 いまそこにある建物の目的と背景