クルソン峡

クルソン峡 大河平事件と宮崎県初の労働争議・フランス山事件

クルソン峡というのは、宮崎県えびの市にあるクルソン川沿いの渓谷です。

享保用水路石頭首工

とても山深く、上流部へ続く道路は現在も未舗装です。

拘留孫

クルソン大橋

クルソン渓谷は、川内川(クルソン川)沿いに、100mに及ぶ高さの断崖が見られ、10kmに及ぶ谷深い渓谷が続く秘境です。

クルソン峡入口

過去七仏の一人、狗留孫(くるそん)が生まれた地という伝承から地名となっています。

クルソン峡の案内看板

1300年前には、修験僧が修行をしていたといわれます。

クルソン峡 全面交通止めを知らせる看板

クルソン峡に続く市道が、残念なことに、路肩決壊のため通行止めになっていました。

クルソン峡 標識

大河平事件

クルソン峡へ続く林道

大河平事件というのは、1877年(明治10年)、大河平氏の後継を、その家臣が斬殺した事件です。

クルソン峡 立石林業事務所

大河平氏は西南戦争では薩軍として参戦していますが、 官軍が南下し大河平村に迫っていました。

クルソン川

薩軍は負傷して村へ帰っていた、大河平氏第14代当主・大河平隆芳の嫡子・鷹丸に、村を焼き払うように指示しました。

クルソン峡

ところが村の焼失は、戦地で戦っている臣下の者たちには、伝わっていませんでした。

クルソン川(川内川)

大河平氏の家臣・川野通寛と清藤平助が、戦地から村へ戻って見たものは、灰塵となった故郷でした。

クルソン川(川内川)

激高した2人は、村に火をつけた鷹丸一家を追い、斬殺してしまいます。

積雪の残るクルソン峡

家臣たちはその後、官軍に投降したことで薩軍からは、大河平士族の内通を疑われることになります。

立石林業事務所

鹿児島にいた大河平隆芳は、一族とともに大河平村に戻り、鷹丸一家惨殺犯を捕えるために尽力することになります。

立石林業 安全第一の横断幕
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大河平小学校

フランス山

立石林業 事務所

大河平事件で後継を失ったうえ、薩軍からも裏切者扱いされた大河平隆芳は、犯人 2人を追います。

クルソン峡 警笛鳴らせの標識

ところが、犯人2名は逃亡していたため、捜索に多額の費用が必要でした。

立石林業 土場

大河平隆芳は、所有する 200ha の山林を売却して資金を捻出しています。

クルソン峡へ続く林道

この山林を立木とともに購入したのが、フランス人実業家 デニーラリューです。

クルソン峡 20㎞制限の標識

デニーラリューは当時、東洋製材の役員をしており、この山に製材所を建てています。

クルソン峡 道中の石碑

そのため、この山はフランス山とよばれるようになりました。

クルソン峡 道中の石碑

宮崎初の労働争議

クルソン峡の倒木

デニーラリューは、クルソン川に水力発電所を作り、材木を運ぶ軌道を敷きます。

クルソン峡 フランス山

これが当時の山村では珍しかったため、働きに来る人がたくさんいました。

クルソン川

ところが、 厳しい労働条件にもかかわらず、とても低賃金でした。

クルソン峡 フランス山

経営者がフランス人のため、習慣も違い言葉も通じません。

クルソン峡 フランス山製材所付近

非人情的に映る経営者に、労働者の不満が蓄積していくことになります。

クルソン峡 フランス山

1908年 (明治41年)、 賃上げ交渉の不調を機に、 全従業員がストライキを決行します。

フランス山製材所跡

抗議集会でビールや焼酎を飲んだ一部の従業員は、日頃の不満から暴徒と化し、工場を破壊する事態に発展しています。

フランス山製材所跡付近

その後の製材所

クルソン峡 全面通行止め

暴動後、製材所は再稼働し、のちにイギリスとフランスの合弁会社に引き継がれています。

クルソン峡 全面通行止め

ところが、1912年(大正元年)に、工場を大洪水が襲ったことから大損害が出ています。

クルソン峡 全面通行止め

製材所から外国資本は撤退し、九州林業に売却されましたが、ほどなく解散しています。

クルソン峡へ行く途中の橋

場所 宮崎県えびの市大河平

クルソン峡途中の神社

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