熊本県球磨郡水上村に、生善院(しょうぜんいん)というお寺があります。
地元では誰もが、猫寺とよんでいます。
猫寺は、全国各地にありますが、この記事は熊本県の猫寺の記事です。
猫寺の観音堂の観音さまは、相良三十三観音霊場の 24番札所となっています。
化け猫騒動
西暦でいうと 1582年のお話です。
もともと、この地はお寺ではありましたが、生善院ではなく普門寺というお寺でした。
普門寺の住職だったのは、盛誉法印(せいよほういん)です。
盛誉法院は、一部の武士たちの謀略により、時の領主相良氏に反逆するとのうわさを流されました。
それを聞いた相良氏は、全くの無実であった盛誉法院を殺害し、普門寺も焼いてしまいました。
息子の死を恨んだ、盛誉法印の母・玖月善女(くげつぜんにょ)は、相良氏を呪います。
そのうえ、愛猫の玉垂(たまたれ)とともに、淵に身を投げて死んでしまいました。
それからというもの、相良氏は猫の怨霊に責め苦しめられることになります。
1585 年には、19代当主相良忠房が享年 14 歳で病死するなど、不幸が止みませんでした。
猫寺の創建
1625 年、事態を鎮静化させようと盛誉法印母子、そして愛猫玉垂の霊を鎮めるために、普門寺跡に建てられたのが生善寺です。
成誉法印の命日である3月16日には、藩主自ら参詣するようになり、ようやく猫の怨念は鎮まったと伝えられています。
のちに生善院は、別名「猫寺」とよばれるようになりました。
お嶽さん参り
1604年に、普門寺は湯前城跡に再興されたのち、相良氏によって厚く保護されました。
それから、代々の相良藩主が、旧暦3月15日に、市房山神宮に参詣するとともに、3月16日には生善院と普門寺を参詣するようになりました。
そして、領民にもこの参詣をするように命じました。
市房山のことをこの地では「お嶽さん」とよんでいます。
そのため、この参詣を「お嶽さん参り」とよぶようになりました。
のちに、人吉球磨地域の一大イベントとして、長い間続くことになりました。
生善院観音堂
生善院観音は、相良三十三観音霊場の24番札所です。
なお、もう1ヶ所水上村岩野の龍泉寺観音も 24番札所となっていますので、スルーしないようにご注意ください。
生善院創建時に、千手観音立像とそれを納める観音堂も同時に建てられています。
この千手観音は、玖月善女の影像といわれています。
観音堂は、江戸時代前期の代表的な構造物として、高く評価されます。
相良氏は、猫の怨霊を鎮めるため、人吉城から遠く離れたこの地に、資金と技術を投じ、生善院を建てたことがわかります。
山門には狛猫
猫にまつわる伝説から、山門脇には狛犬ならぬ、狛猫が座っています。
猫寺では、強い思いを貫いた一人の女性と愛猫、そして家族の強い絆の伝説が語り継がれることになりました。
そのため、強い願い事をかなえたい人たちや、家族の無事を祈る人たちが訪れるようになりました。
猫寺という通称や、玉垂の墓もまつられているため、愛猫の健康祈願や病気治癒祈願に参られます。
そして何より、長年連れ添った愛猫の冥福を祈る人たちが訪れています。
まとめ
お嶽さん参りは、廃藩置県により人吉城が廃城となったのちも続けられました。
ちなみに、夏目友人帳に登場するニャンコ先生のモデルは、玉垂ではないかともいわれています。
日本遺産人吉球磨では、3つの構成文化財がからむ重要スポットです。
- 30番 生善寺院観音堂
- 38番 相良三十三観音めぐり
- 56番 お嶽さん参り
場所 〒868-0701 熊本県球磨郡水上村大字岩野3542
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