重来 (しげき)神社は、戦国時代武将・入来院重時をまつります。
入来院氏は戦国武将として島津氏に対抗してきましたが、最終的には島津氏の家臣となります。
入来院氏
入来院氏というのは、 入来院 (現在の薩摩川内市入来町) を治めていた豪族です。
南北朝時代、入来院氏は南朝に付き島津氏は北朝に味方しました。
以来、 島津氏とは敵対関係が続きます。
居城としていた清色城 (入来町浦之名)を包囲されると、 島津氏に降伏し清色城を明け渡しています。
その後、島津氏による奥州家と総州家の内紛に乗じ、 総州家に味方したことで、 清色城に戻ります。
なお、入来院氏は、相模国(現在の神奈川県) 渋谷氏の分派になります。
薩摩国の東郷氏 祁答院氏 鶴田氏 高城氏も同族です。
島津氏への協力と謀反
入来院氏は伊作島津家との縁故関係を築くと、 島津氏の勢力拡大に貢献し、広大な所領を得ることになりました。
ところが、 養子だった島津貴久との関係が悪化すると、 肝付氏や祁答院氏それから蒲生氏らとともに、再び島津氏と敵対しています。
しかし、各地での島津氏との戦いでは劣勢を強いられ、再び島津氏に降伏しています。
しかし度重なる島津氏への抵抗から、入来院氏は本領である入来院以外の所領は取上げられてしまいました。
豊臣秀吉の九州平定
豊臣秀吉の九州平定では、入来院氏は島津氏一門として抗戦しています。
1595年、島津氏の降伏により、島津氏領内では国人の在地性を切り離すため領地替えが行われました。
入来院氏は入来院清色を離れ、菱刈郡湯之尾(現在の伊佐市菱刈町)に入っています。
入来院重時
入来院重時 (1573~1600) は、 第15代入来院当主です。
1600年、入来院重時は島津義弘に従い、 関ヶ原の戦いに参戦しています。
島津の退き口とよばれる撤退戦の途中、本隊を見失い近江国(現在の滋賀県) で、敵の追手と交戦し討死しています。
由緒
重来神社は、入来院重時をまつっています。
菱刈郡湯之尾で、入来院第16代当主・入来院重高により日吉明神として創建しています。
1613 年には入来院氏が、入来郷に復したことから日吉明神も現在地へ移しました。
しかし、不思議なことに霊異が鎮まらなかったといいます。
そのため 1655年に、京の吉田家から重来明神の神号を授かったといわれています。
ご祭神
入来院重時は戦国武将で、数々の武勲があります。
そのため重来神社は、 軍神として崇敬を集めています。
入来院 重時 | 入来院氏第15代当主 | 主祭神 |
入来院 重豊 | 入来院氏第14代当主 | 広瀬神社を合祀 |
渋谷 有重 | 弘安の役で戦死 | 若宮神社を合祀 |
渋谷 致重 | 弘安の役で戦死 | 若宮神社を合祀 |
渋谷 重尚 | 弘安の役で戦死 | 若宮神社を合祀 |
入来院定勝 | 入来院氏第24代当主 | 定勝神社を合祀 |
心霊スポット
実は創建当時から伝えられる重来神社の霊異は現在も続いています。
- 近くの林から何者かの叫び声が聞こえた
- 林の中から男の霊に呼びかけられた
- どこからともなく念仏が聞こえてくる
- 大勢の鎧武者の亡霊をみた
戦国武将といえば合戦に明け暮れ、まさに生きるか死ぬかの毎日です。
名を上げるほど多くの敵を討ち取っていますが、自らの命も敵に狙われることになります。
入来院重時のほか弘安の役に出兵し戦死した、一族の澁谷3氏も祭神となります。
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