南洲神社 西郷どんと薩軍戦没者6800柱をまつる神社
南洲神社は、鹿児島市上竜尾町にある神社です。薩摩藩士西郷隆盛ゆかりの神社となります。近世の鹿児島の歴史を振り返るとき、必ず語られる西郷隆盛の親しみを込めた愛称は「西郷殿(せごどん)」ですが、敬意を表すときは「南洲翁(なんしゅうおう)」とよばれていました。西南戦争において薩郡を率いた南洲翁と、薩軍戦没者の墓地が南洲墓地であり、その霊をまっつたのが南洲神社です。
鹿児島県は日本本土の最南端にありながら、近世の日本を動かす人材を輩出しています。 観光にも力を入れていて見どころ満載です。 九州の中でも独特のイントネーションを持つ鹿児島弁の会話を聞くと、まるで異国にいるようです。
南洲神社は、鹿児島市上竜尾町にある神社です。薩摩藩士西郷隆盛ゆかりの神社となります。近世の鹿児島の歴史を振り返るとき、必ず語られる西郷隆盛の親しみを込めた愛称は「西郷殿(せごどん)」ですが、敬意を表すときは「南洲翁(なんしゅうおう)」とよばれていました。西南戦争において薩郡を率いた南洲翁と、薩軍戦没者の墓地が南洲墓地であり、その霊をまっつたのが南洲神社です。
高免(こうめん)小学校は、鹿児島市高免町にある小学校です。現在は休校中です。高免町(こうめんちょう)は、有名な黒神埋没鳥居がある桜島北東部の町です。現在休校中の高免小学校の校区の児童は、黒神小学校へ通っています。
鹿児島五社というのは、鹿児島市の上町(かんまち)地区にある、5つの神社のことです。薩摩藩主島津家ではじまった五社参りは、領主一族と家臣の風習でしたが、次第に一般庶民にも広がったものです。明治時代以降は市街が南へ広がり車社会になったことで、薩摩藩時代の社勢はありませんが、5社ともに現存し往時の名残を伝えています。
滄浪(そうろう)小学校は、かつて鹿児島県薩摩川内市にあった公立小学校です。校名の滄浪というのは、川内川を中国の河川「滄浪」に見立ててつけられています。校区の地名を冠するのが一般的な公立小学校ではレアケースです。しかし、地元の方はその深い意味を理解していたからこそ使い続けていました。
平松神社は、鹿児島市吉野町にある神社です。社地は心岳寺という寺院の跡になります。心岳寺は、島津歳久公の菩薩寺として、兄の島津義久公が建てたものです。以降、島津歳久公の命日、旧暦の7月18日とその前日には多くの拝観者が訪れることになります。これを、心岳寺参りといいます。心岳寺は廃寺となったのち平松神社となりましたが、心岳寺参りは続いていました。
協和中学校は、かつて鹿児島県垂水市にあった公立中学校です。2010年(平成22年)に、垂水中央中学校へ統合し閉校となっています。垂水市の協和地区というのは、明治以前の中俣村と海潟(かいがた)村のことになります。住所表記には協和という地名は使われませんが、明治時代から、両方を合わせて協和地区とよぶのが定着していました。
照島神社は、鹿児島県いちき串木野市の照島にある神社です。歴史的な逸話の多い島で、景観地でもあるため、ちょっとした観光地になっています。さらに、物産館「照島海の駅」と「海の家食堂」でまぐろの町いちき串木野市を堪能することができます。照島は、日本三大砂丘、吹上浜の最北端にある島です。
牛根麓稲荷神社は、鹿児島県垂水市にある神社です。桜島の大正噴火により埋没した鳥居が現在も残っています。埋没鳥居といえば、桜島島内にある腹五社神社の黒神埋没鳥居が有名です。しかし、桜島島外にある牛根麓稲荷神社の埋没鳥居も忘れてはなりません。
陽成(ようぜい)小学校は、かつて薩摩川内市陽成町にあった公立小学校です。シンボルツリーはセンダンの木になります。陽成小学校の校区は薩摩藩時代、高城郷(たきごう)麦之裏村といっていました。1889年(明治22年)の町村制施行時に、高城郷の区域がそのまま高城村になっています。高城村役場が置かれたのが麦之尾でした。
祓戸神社(はらえどじんじゃ)は、鹿児島県霧島市にある大隅国の総社です。江戸時代までは、守公神社(しゅこうじんじゃ)とよばれていました。名称からも、大和朝廷が国府を置いたのち、総社として国分のそばに創建されたことがわかります。明治時代に祓戸神社となったのは、祓戸四神をまつるためですが、他にも多くの社を統合したと考えられます。
東郷小学校は、かつて鹿児島県薩摩川内市東郷町にあった公立小学校です。2019年(平成 31 年)に、薩摩川内市立東郷学園義務教育学校へ移行しています。東郷小学校は、元サッカー日本代表の前園真聖選手の母校になります。東郷小学校時代から県大会で活躍していました。のちにアトランタオリンピックの「マイアミの奇跡」で世界に知られることになります。
大隅線はかつて、志布志駅から国分駅を結んでいた、国鉄のローカル線です。1972年(昭和47年)に、路線総延長98.3㎞を全通させましたが、その15年後に全線廃止されました。その結果、大隅半島の大部分が鉄道空白地帯へ戻っています。2021年(令和3年)に、大隅線の各駅がどうなっているか見てきました。