滄浪(そうろう)小学校は、かつて鹿児島県薩摩川内市にあった公立小学校です。
校名の滄浪というのは、川内川を中国の河川「滄浪」に見立ててつけられています。
川内川沿いの高台にある学校
校区は薩摩川内市久見崎町です。
滄浪という地名は、久見崎町のどこをさがしても見当たりません。
校名の由来は、はるか遠く中国湖北省の川「滄浪」にちなんでいます。
中国の文人政治家「屈源」の詩に、滄浪のことが書かれています。
「滄浪の水清ければもって我が纓を濯ぐべし、滄浪の水濁らばもって我が足を濯ぐべき」
漢詩を直訳すると次のような感じです。
「きれいな水ならば自分の衣服を洗うだろうが、濁った水ならば足を洗ったほうが良い」
これは、「水は清冽であってこそ水であり人にも好かれる。人もまた同じで清く正しく生きるべき」というのが真意です。
久見崎町は、川内川の河口近くに位置します。
川内川を滄浪になぞらえて校名がつけられました。
公立小学校としてはとてもレアなケースです。
空襲での校舎喪失
1945年(昭和20年)7月30日、滄浪小学校は、戦争中に空襲で校舎を焼失しています。
この際、勤労奉仕で集まっていた児童7人が犠牲となってしまいました。
戦後、滄浪小学校では7人の児童の慰霊と平和学習が、毎年行われていました。
九州電力川内原子力発電所
滄浪小学校の校区内には、九州電力の川内原発があります。
1984年(昭和 59年)の営業稼働開始前から、薩摩川内市では原発事故を想定した、大小の訓練を実施しています。
そうした意味では、滄浪小学校は防災意識の高い小学校でした。
2011年(平成23年)の福島第一原発事故後には、川内原発は新規制基準下で運用されています。
沿革
1876年(明治9年) | 高江 36 郷校分校本校として創立 |
1879年(明治12年) | 久見崎小学校へ改称 |
1886年(明治19年) | 滄浪簡易科小学校へ改称 |
1892年(明治25年) | 滄浪尋常小学校へ改称 |
1902年(明治35年) | 滄浪尋常高等小学校へ改称 |
1941年(昭和16年) | 滄浪国民学校へ改称 |
1947年(昭和22年) | 高江村立滄浪小学校へ改称 |
1956年(昭和31年) | 川内市立滄浪小学校へ改称 |
2004年(平成16年) | 薩摩川内市立滄浪小学校へ改称 |
2012年(平成24年) | 薩摩川内市立水引小学校へ統合 閉校 |
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