山田大王神社で特徴的なのは、その祭神です。
「山田」というのはこのあたりの地名です。
神社を建てたのは相良氏です。
しかし、「大王」が意味するのは相良氏自身のことではありません。
相良氏が滅ぼした、かつての「大王」平河氏を意味します。
平河氏とは?
1198年、相良家初代当主長頼(ながより)が人吉に入ったとき、平河義高は地頭として永吉庄を支配していました。
永吉庄というのは現在の、球磨川より北側一帯あたりになります。
平河義高は、かつての人吉城主矢瀬主馬佑(やせしゅめのすけ)を討伐し、相良長頼の人吉城入りをかなえた立役者です。
平河氏に対し恩義は感じていても、敵対関係にはありませんでした。
しかしこの時代、平河氏が次第に力をもつようになると、自分の身が危うくなります。
相良長頼は、相良氏に不満をもち陰謀を起こしたとして平河一族をせん滅してしまいます。
なぜ敵将を祀るのか?
山田大王神社の祭神は、平河義孝の次男、藤高です。
このほかにも、平河氏が治めていた永吉荘内に、敵将を祀る神社を建立しています。
平河氏の居城、岩城の近くにある、荒田大王神社には平河義高を祀っています。
現在の多良木町黒肥地地区にある、横瀬大王神社には義高の長男、守高を祀ります。
現在のあさぎり町深田にある、深田大王神社には義高の三男、師高を祀っています。
現在の錦町木上平川地区にある、平川大王神社に義高の四男、重高を祀りました。
敵将を祀るのは、平河氏の怨霊を恐れそれを静めるためといわれています。
それまで殿と慕っていた敵将を祭神とすることで、領内住民の心情をつかんでいったことが、政権安定につながったともいわれています。
貴重な文化財
山田大王神社は、各地にある平河氏を祀る神社の中でも、特に保存状態が良好でした。
そのため、当時の文化を伝える、貴重な文化遺産といわれています。
本殿は1546年の建立となります。
拝殿と供養所は1671年、鳥居は1745年、本殿覆屋は1781年の建立です。
ほぼ同時期に建てられており、景観も整っている点が高く評価されています。
1990年(平成2年)に建造物は国の重要文化財に指定されました。
2015年(平成27年)日本遺産人吉球磨の構成文化財のひとつとなっています。
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