普門寺観音は、相良三十三観音霊場の25番札所です。
現在は普門寺というお寺はなく、観音堂だけが残されています。
普門寺は、球磨郡の歴史に残るイベントにかかわり、今でも語り継がれているお寺です。
ご本尊
ご本尊は、聖観音立像です。
このほか
- 千手観音
- 馬頭観音
- 十一面観音
- 准堤観音
- 如意輪観音
の合計6観音が安置されていました。
これらは6観音ともに、1652 年に京都からもたされたものです。
しかし、残念なことに、十一面観音像は、戦時下の混乱期に盗難に遭い、行方がわからなくなっていましました。
歴史的イベントに巻き込まれた普門寺
普門寺は、もともとは水上村湯山にあり、市房山神宮の修験場でした。
修験場というのは、山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教、修験道の修行場のことです。
普門寺は、1506年に水上村岩野に移されています。
1582年、普門寺の住職、盛誉法印(せいよほういん)が、間違った情報をもとに、人吉藩主相良氏に暗殺され、寺も焼かれてしまいました。
その後、普門寺は廃寺となり放置されていました。
ところが、盛誉法印の飼い猫、玉垂(たまたれ)の怨霊が、化け猫となり、相良一族を苦しめることになります。
これを「相良化け猫騒動」といいます。
この「化け猫騒動」を鎮めるため、普門寺跡には生善院(通称:猫寺)が建てられました。
また、1604年に普門寺も相良氏により、湯前城跡に再建されました。
これにより「化け猫騒動」はやっと鎮静化しています。
普門寺はその後、代々の相良藩主により手厚く保護されたました。
ところが、明治時代に入ると相良氏の後ろ盾がなくなります。
さらに、神仏分離令によって、1872年(明治5年)には、廃寺となりました。
そして、1883年(明治16年)には、観音堂を残して焼失していましました。
市房山神宮の遥拝所(ようはいしょ)
市房山神宮は、この地域では高神とされていました。
「化け猫騒動」を機に、相良氏は、盛誉法印の命日である3月15日に、市房山神宮と普門寺、生善寺の礼拝を領民に命じます。
これを「お嶽さん参り」とよんでいます。
「お嶽さん参り」は、この地域の一大イベントとして定着し、多くの参拝者がありました。
しかし、市房山神宮は市房山の4合目に位置しており、参拝は簡単ではありません。
市房山神宮と関係の深かった普門寺は、市房山神宮の遥拝所としての機能を持っていました。
1872年(明治5年)に、廃寺となった後も、市房山神宮の遥拝所としての機能は残しています。
ところが、1883年(明治16年)の火事は、単に廃寺が燃えたというだけではありません。
市房山神宮が、遥拝所を失ったことも意味していました。
のちに、普門寺跡に市房山神宮下宮となる里宮神社が建てられたのは、市房山神宮の遥拝所再建の気運の高まりからでした。
ところが、1883年(明治16年)の火事により、この遥拝所も焼失しています。
1934年(昭和9年)、普門寺跡に里宮神社(市房山神宮下宮)が建立されたのは、市房山神宮の遥拝所再建の気運の高まりからでした。
まとめ
普門寺は、市房山神宮と関係の深いお寺でした。
住職が暗殺されことで、歴史にほんろうされてきました。
しかし、皮肉にもこの出来事により歴史に残り、後世まで語り継がれることになっています。
歴史上、「化け猫騒動」「お嶽さん参り」「里宮神社」など、近くのスポットと関わっていますので、セットで訪問されるとより楽しめます。
関連記事
【関連記事】人吉球磨三十三観音 Web上で巡礼できるようにしてみた
【26番札所】上里の町観音堂 米良との関係も思わせる町の観音さん