比曽木野(ひそきの)小学校は、かつて鹿児島県霧島市福山町にあった公立小学校です。
旧福山町でも上場といって、シラスでできた台地状の土地に谷が入り、平坦地が少ない地域にあった学校です。
学校遺構
比曽木野小学校が学校としての役目を終えたのは、40年以上も前のことです。
しかし現在も、一見して学校跡とわかる雰囲気が残っています。
校門の門柱
まず、出迎えてくれるのは門柱です。
笠つきの石造で、長い歴史を感じさせます。
石造の表札も現役の小学校? と見間違うようなりっぱなものです。
実は、2013年(平成25年)までは、石造門柱の外側にコンクリート製門柱がありました。
2013年3月撮影のストリートビュー Ⓒ Google
鹿児島県道491号大川原小村線が拡幅されたさい、撤去されています。
石碑群
学校跡の北側に、3つの石碑が並んでいます。
創立百周年記念碑
比曽木野小学校が100周年を向かえたのは、1972年(昭和47年)のことです。
碑文によると、校区民から1人1個の石を集め、全部で461個の石を使って定礎してあります。
閉校記念碑
比曽木野小学校の閉校は、100周年からわずか4年後となる、1976年(昭和51年)です。
碑文によると、最終年度の全生徒数は25名でした。
電灯架設五十周年記念碑
小学校とは直接関係ありませんが、比曽木野地区に電灯が引かれ、50周年になるのを記念した碑です。
比曽木野地区に電気が来たのは、1948年(昭和23年)でした。
碑文には、1959年(昭和34年)のバス開通、1972年(昭和47年)の電話開通のことも書かれています。
現在の比曽木野は、高規格道路が接道していますが、昭和初期には秘境感がある地域だったのでしょう。
災害復旧記念碑
敷地の南西にある大きな記念碑には、平成5年災害復旧記念碑と書いてあります。
1993年(平成5年)に見舞われた、集中豪雨災害からの復旧を記念した石碑です。
校舎
比曽木野小学校の現役時には、校舎は学校敷地の北側に並んでいました。
学校敷地の南側にある校舎は、比曽木野中学校のものです。
1961年(昭和36年)に比曽木野中学校が閉校すると、南側の校舎は小学校の高学年の教室として使われました。
現在の比曽木野小学校 ⒸGoogle
現在の航空写真を見ると、現役時の校舎が解体されているのがわかります。
現地で見ると、校舎跡は完全に更地になっています。
敷地北東隅にあった多くの建物も、この通りすべてなくなっています。
運動場
比曽木野小学校の運動場は、今も変わらず運動場のままです。
学校跡で最も大きな木は、運動場の隅にあるセンダンの木です。
閉校したときには、ここまで大きな木ではなかったはずです。
センダンの木の下の倉庫は、ひそきの営農組合の農機庫です。
比曽木野地区体育館
学校跡では、校舎は解体されても、体育館が残されているケースは多々あります。
当然、比曽木野小学校時代の施設を転用したものと思いましたが、実は閉校後に新築してあります。
国旗掲揚台は、比曽木野地区体育館の落成を記念して建てられたものです。
比曽木野地区公民館
比曽木野地区体育館とならぶ学校跡のメイン施設は、比曽木野地区公民館です。
1975年(昭和50年)の航空写真には、全く同じ位置に現在の公民館の建物が見えます。
唯一の学校時代からある建物と思えます。
公民館のとなりの建物は開口部が多く、中を見ることができます。
昔、土間にあった炊事場が再現されています。
自然の石をうまく組み合わせて作られた、かまどです。
となりの木造平屋建ての建物には、ひそきの元気館と書いてありました。
沿革
比曽木野小学校
1873年(明治6年) | 比曽木野小学校創立 |
1889年(明治22年) | 佳例川比曽木野尋常小学校へ改称 |
1927年(昭和2年) | 現在地へ移転 |
1941年(昭和16年) | 比曽木野国民学校へ改称 |
1947年(昭和22年) | 福山町立比曽木野小学校へ改称 |
1976年(昭和51年) | 福山町立牧之原小学校へ統合 閉校 |
比曽木野中学校
1947年(昭和22年) | 福山町立比曽木野中学校創立 |
1961年(昭和36年) | 福山町立牧之原中学校へ統合 閉校 |
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