加久藤城 大手門跡

加久藤城 未遂に終わった薩摩藩クーデター計画

加久藤城は、かつて宮崎県えびの市にあった中世城です。

加久藤城 大手門跡

真幸院(まさきいん・現在のえびの市)加久藤郷を治めた、平山城となります。

北原氏が築城

加久藤城 城下町

加久藤城は、室町時代に当地の豪族・北原氏が築いた城になります。

加久藤城下の遺構

北原氏はもともとは肝付氏の分家で、真幸院を中心とした有力豪族でした。

加久藤 麓菅原天神

加久藤城のあった丘の周囲は断崖で、 自然の要塞を呈していました。

加久藤麓菅原天神の説明板

1562年、島津氏と伊東氏の間にあり、後継が途絶えた北原氏は島津氏に城を譲っています。

加久藤城 城下町

鶴寿丸の墓

鶴寿丸の墓

北原氏滅亡後の加久藤城には、島津家家臣・川上忠智を城主とし、飯野城にいた島津義弘の正妻と長子である鶴久丸を住まわせました。

鶴寿丸の墓

1572 年の木崎原の戦いでは、伊東軍に攻められますが、島津義弘の策略で落城することはありませんでした。

島津義弘公長子・鶴寿丸の墓

1576年、鶴久丸は8歳で病死していて城下に墓が残っています。

島津義弘公長子・鶴寿丸の墓

さらに1615年には、一国一城令により廃城となります。

鶴寿丸の墓の手水鉢

廃城後の伝説

鶴寿丸の墓 入口の庚辰塔

江戸幕府の一国一城令で廃城となった後の加久藤城には伝説があります。

島津義弘公の銅像

真幸院周辺には、先祖を木崎原の戦いで失い、島津氏をよく思わない勢力もたくさんいました。

島津義弘公の銅像

1693年、島津氏に対抗する勢力が、秘かに加久藤城に集まります。

道の駅えびの

連日連夜、薩摩藩に対するクーデター作戦を練っていました。

田の神さあの里 ひらがなのまち えびの市

島津藩は住民からの通報で、クーデター計画を察知します。

加久藤城跡

時の藩主・島津綱貴は、反乱軍討伐のため島津軍を加久藤城へ向かわせました。

加久藤城跡への道

島津軍の圧倒的戦力により、数時間で反乱軍は壊滅しています。

加久藤城跡の断崖

反乱軍の兵はことごとくさらし首にされ、首謀者たちは市中引き回しのうえ処刑されました。

反乱軍の残党

反乱軍のうち数名は、周辺の空き家に身を隠し、逃げる機会をうかがっていました。

加久藤城跡の断崖

そこへ女性2名が近づいてきたため捕らえ、島津軍がなぜクーデターを察知したのかを尋問しました。

加久藤城跡 大手門跡

すると、作戦会議を盗み見ていた住民が、島津藩に通報したことを知ることになります。

加久藤城下の民家

反乱軍の残党たちは、夜になると闇に紛れて住宅に押し入り、住人たちを殺害します。

加久藤城下の民家

住宅に証拠を残さず、遺体は加久藤城の本丸跡に積上げていきました。

加久藤城下の住宅街

最後の住民の襲撃を終えると、残党たちは自ら藩に通報し、加久藤城に島津軍をおびき寄せます。

加久藤城のあった平山

調査にきた島津軍の目に入ったものは、加久藤城で燃え上がる遺体の山でした。

加久藤城のあった平山

しかし、反乱軍の残党たちの姿はどこにもありません。

加久藤城下の石碑

島津軍は、残党たちをとらえるべく山狩りを行いますが、痕跡すら見つけることができなかったと伝わります。

場所 宮崎県えびの市大字小田 1224

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