木崎原古戦場(きさきばるこせんじょう)というのは、宮崎県えびの市にある戦国時代に薩摩島津氏と日向伊東氏が戦った戦場です。
木崎原の戦いは、のちの2国のパワーバランスを大きく動かしています。
そのため、九州の「桶狭間の戦い」や「関ケ原の戦い」とたとえられています。
発端
島津氏第15代当主・島津貴久は薩摩国の統一を果たします。
しかし、1571年に貴久が亡くなると大隅肝付氏は島津領内に侵入をはじめます。
これをチャンスと見た日向伊東氏は、真幸院(まさきいん・現在のえびの市)への攻撃準備をはじめています。
都於郡城(とのこおりじょう)にいた伊東義祐(いとうよしすけ)は、飯野城を居城としていた島津義弘を攻略すべく、約3,000人もの大軍を小林城に集めました。
釣り野伏せ
迎え撃つ島津氏は、わずか300人の軍勢だったのですが、戦いは島津氏に有利な展開となります。
まず、伊東軍勢は若手の将兵が多く、手慣れた島津軍の戦略に翻弄されています。
その典型的な戦術が「釣り野伏せ」という、隊を3軍に分け3方向から包囲する戦術です。
まず、中央の隊が正面から当り、敗走を装って後退するのが「釣り」です。
追走する敵を、左右の伏兵が襲うのが「野伏せ」です。
さらに、中央隊が反転することで、3面包囲の状態ができあがります。
少数で大軍を相手にするために、島津氏が編み出した戦法です。
決戦
1572年、前哨として周辺での小競り合いののち、木崎原の戦いが決戦となっています。
島津軍のしたたかな戦略と熟練した兵により、伊東軍は約1,000 人が討ち取られることになります。
その中には、幹部クラスの武士 128 人が含まれています。
一方、島津軍も兵力の85%を失ったといわれています。
伊東氏はこの大敗で勢いを失い、島津氏の三州(薩摩・大隅・日向)統一の足がかりとなっています。
鬼島津
島津義弘は、このあとも豊後大友氏、肥後阿蘇氏を破るなど、島津軍の総大将として指揮をとり武功を挙げています。
ついた異名が「鬼島津」です。
朝鮮出兵で島津軍は、5,000人ほどの兵で20万超の朝鮮軍と戦い、持ち帰った首級は3万~5万といわれています。
その戦いぶりは「鬼より怖い」と恐れられました。
島津義弘公像
2018年(平成30年)、道の駅えびのの駐車場に建てられたのが島津義弘公の像です。
翌年の2019年(令和元年)に、没後400年を迎えています。
真幸院(現在のえびの市)で26年間を過ごし、その後も幾多の戦いを勝ち抜いています。
400年経っても語り継がれる、島津家を代表する戦国武将です。
心霊スポット
古戦場ではありがちですが、木崎原古戦場と首塚は霊の目撃スポットです。
- 首なし武者
- 人魂
- 槍を持った兵士
島津軍の兵士は死をいとわず、鬼のような強さだったため「鬼島津」とよばれました。
どうもそれだけでなく、伊藤軍の残党に対する、残酷かつ無慈悲な拷問や処刑があったようです。
木崎原古戦場一帯には、首なしの損傷が激しい遺体が無数に転がっていたといいます。
それこそ、本物の鬼も泣いて逃げるほどの壮絶な光景だった、と言い伝えられています。
伊東塚
伊東塚というのは、木崎原の戦いで戦死した、伊東軍武将の供養塔です。
伊東軍勢 200人におよぶ墓碑は、昌寿寺につくられ因幡塚といわれていました。
しかし、昌寿寺は明治初めの廃仏毀釈で廃寺となっています。
現在残るのは、9基のみとなっています。
もっとも遺体はえびの市の首塚に埋められたため、供養塔の下に遺骨はないといわれています。
島津家家臣の子孫は、これらの霊を慰めるため五輪塔を建てています。
場所
三角田・六地蔵塔 | 宮崎県えびの市池島 |
元巣塚(げんのすづか) | 宮崎県えびの市池島 |
首塚 | 宮崎県えびの市上江 |
太刀洗川(たっちゃらご) | 宮崎県えびの市上江 |
島津義弘公像 | 宮崎県えびの市永山1006-1 |
伊東塚 (伊東家木崎原合戦戦死者供養塔) | 宮崎県小林市真方 160-2 |
関連記事
【関連記事】陣の池 霧島連山の湧水を利用したエメラルドグリーンの農業用ため池
【関連記事】大河平小学校 一族の血潮に染まる大河平ツツジが息づく学校
【関連記事】グリーンヒルズホテル 2020年に注目度が上がった宮崎の心霊スポット