幸田の棚田というのは、鹿児島県湧水町にある有名な棚田です。
国見岳山麓に広がる谷あいに、みごとな石垣の棚田が広がっています。
日本の棚田百選
幸田の棚田が完成した年代は明らかになっていませんが、今ある石垣が組まれたのは江戸時代のはじめといわれています。
石垣は城郭を造っていた、串木野や加世田の石工によって築かれています。
反りのある石垣は、 「水田のお城」 といわれるほどです。
日本の棚田百選に選ばれています。
棚田米
幸田地区に山沿いは寒暖差が激しく、国見岳からの湧水は清らかな冷水です。
幸田の棚田で作られるコメは、 粘りと光沢のあるヒノヒカリで、 棚田米ブランドで出荷されます。
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脱藩者集落
平安時代の終わりから戦国時代、人里離れた幸田の山間は、 戦いで敗れた敵兵や脱藩者の隠れ家となっていました。
その数は数百人ともいわれ、集落を形成していたといいます。
ある時、島津藩に知られることとなり、現地調査が行われました。
しかし、領外のものが藩に隠れて農作物を栽培したり、収入を得たりするのは違法です。
全財産を没収されるどころか、厳しい処罰が待っています。
そこで集落の住民たちは、調査に入る島津藩の役人と兵士を迎え撃つことにしました。
幸田の伝説
住民とはいえ、もともとは武士であり奇襲攻撃をかけたため、 島津藩の家老と兵士 200 名は全滅してしまいました。
怒った島津藩は、掃討作戦のため大軍を投入することになります。
幸田に入った島津軍ですが、 集落には誰1人残っていません。
周辺を捜索すると100体を越える遺体が横たわっていたといいます。
すべての遺体には頭がなく、首から下の体だけになっていました。
幸田の棚田は、島津兵200人と住民100人を供養するために築かれたと伝えられています。
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