玉東町木葉みちくさ小径

西南戦争 玉東町木葉の戦争遺構・熊本城を目指す官軍の最前線基地

先の西南戦争で、熊本城を包囲する薩軍は、 城北で官軍の南下を止めるため防衛線を張りました。

高月官軍墓地 門柱

そのため、一帯では激しい戦いが繰り広げられています。

特に田原坂の戦いが有名ですが、 前後して両軍の戦闘が行われた地では、今でも西南戦争が語り継がれています。

時系列推移

玉東町木葉 みちくさ小径

1877年(明治10年)、 熊本城の熊本鎮台は、小倉・福岡・長崎から兵を集めたことで、待ち伏せする薩軍と遭遇します。

2/22植木向坂の戦い
2/23木葉の戦い
2/25~高瀬 (玉名)の戦い
2/26伊倉・寺田 (玉名)の戦い
2/27薩軍高瀬から撤退
3/4~田原坂の戦い
3/8~二俣口の戦い
3/9~横平山の戦い
3/12二俣・横平山の激戦
3/20官軍田原坂占領
3/20~植木・木留の戦い
4/1官軍半高山・吉次峠占領
4/2官軍木留占領
4/15薩軍植木・木留から撤退

熊本城外での開戦

高月官軍墓地

1877 年 (明治10年)2月22日、 官軍は植木向坂の戦いで敗れ、 軍旗を失っています。

高月官軍墓地

木葉まで退却した官軍は、翌23日薩軍と対峙することになります。

高月官軍墓地 慰霊碑

官軍はまだ十分な援軍が南下しておらず、 薩軍優位で戦闘が繰り広げられました。

高月官軍墓地 門柱

木葉の戦い

木葉城跡

木葉の戦いでは、薩軍兵力 1800名に対し、官軍は700名。

木葉城跡の説明板

官軍は援軍要請するも、増援する余裕がないため、 乃木連隊長自身が直接指揮を執ると駆け付けます。

有栖川宮提戦の碑

薩軍に取り囲まれた乃木は、かろうじて高瀬 (玉名)へ後退することに成功しています。

有栖川宮提戦の碑

一方の薩軍も、退却する薩軍を追撃する余裕はなく、植木まで撤退しています。

官軍木葉本営址の公民館
官軍木葉本営址

官軍木葉本宮址

官軍木葉本営址 石柱

官軍木葉本営址は、3月6日から3月20日まで、田原坂での激戦中の官軍本営です。

官軍木葉本営址に残る井戸

当時の民家は、公民館になっていますが、当時の井戸が残っています。

西南戦争当時の官軍木葉本営址
官軍木葉本営址

有栖川宮提戦の碑

木葉城から見た玉東町

中世の山城・木葉城は、玉東町を見下ろす丘の上にあります。

西南戦争有栖川宮提戦の碑

西南戦争では、征討総督・有栖川宮織親王が田原坂の戦いを見守られた地です。

西南戦争有栖川宮提戦の碑

高月官軍墓地

高月官軍墓地の墓石

高月官軍墓地には、木葉の戦いだけではなく、田原坂、吉次峠、横平山など、周辺の激戦で亡くなった官軍兵士約980 名が眠ります。

西南戦争高月官軍墓地の墓石

周囲には官軍墓地が多くありますが、なかでも最大の官軍墓地となります。

高月官軍墓地の説明板

官軍病院址

西南戦争官軍病院跡 徳成寺

西南戦争時、徳成寺(とくじょうじ)には、官軍病院が置かれました。

官軍病院跡の石碑

仮包帯所とよばれ、前線の野戦病院的な位置づけで、救急医療処置を行っています。

官軍病院址の石柱

手当に当たった博愛者は、敵味方関係なく手当てをしました。

日赤発祥の地の石碑

博愛者はのちに日本赤十字社となっていて、徳成寺は日本赤十字発祥の地となっています。

西南戦争官軍病院跡 徳成寺

田原坂攻撃官軍第一線の碑

田原坂攻撃官軍第一線の碑

官軍が田原坂攻撃の第一線の陣地としたあたりです。

田原坂攻撃官軍第一線の碑と産交バス境木バス停

現在の国道は、当時のルートとは異なります。

田原坂攻撃官軍第一線の碑 旧道

ここから豊岡眼鏡橋まで、旧道を通っていました。

豊岡の眼鏡橋

豊岡の眼鏡橋

豊岡の眼鏡橋

1802年に完成した、熊本県内最古の石造眼鏡橋といわれています。

西南戦争豊岡の眼鏡橋

官軍の田原坂攻撃の際は、多くの兵員と物資がこの橋を渡りました。

西南戦争豊岡の眼鏡橋

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