西郷隆盛宿陣跡資料館というのは、宮崎県延岡市にある資料館です。
西南戦争の際、西郷隆盛が実際立ち寄ったお宅がそのまま資料館になっています。
宿陣跡
和田越えの決戦で大敗を喫した薩軍は、北川に逃れ俵野地区の児玉熊四郎宅を訪れました。
西郷隆盛は、俵野に天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の御陵があることを知っていて、訪れたのだといわれています。
宿陣としたお宅は 御陵の手前、官軍も大砲や鉄砲を打ち込むことはないと知っていました。
同時に、自身も天皇家の祖先のそばで、一時的に安息できたためと考えられています。
宿陣としたお宅が保存されていて、資料館として見学できるようにしてあります。
開館時間 | 9:00~17:00 |
休館日 | 12/28~ 1/3 |
入館料 | 無料 |
薩軍解散布告
西郷隆盛は宿陣で合議を重ね、薩軍の解散布告を出します。
自らも日本に一着しかない陸軍大将の軍服を、前庭で焼いています。
御陵の前で軍服を焼いたのは、天皇家に軍服をお返ししたことを意味していました。
西郷隆盛青空テーマ館
西郷隆盛宿陣跡資料館一帯の西郷隆盛ゆかりの地は、西郷隆盛青空テーマ館になっていて、歩いて散策できるようになっています。
北川御陵参考地
天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみことの)の陵墓、可愛山陵(えのみささぎ) と伝わります。
可愛山陵は、 宮崎県の西都市や鹿児島県の薩摩川内市にも伝承地があります。
当時の明治政府は政治力を背景に、鹿児島県の可愛山陵を治定しています。
しかし、瓊瓊杵尊は日向国で没したとされ、本来の神陵は宮崎県にあるという説が有力です。
中津大四郎の墓
薩軍の解散布告を受け、諸隊は官軍に投降しています。
熊本竜口(りゅうぐち)隊隊長・中津大四郎は、薩軍幹部と面会した後、責任をとり自刃しています。
天神社
ご祭神は3柱です。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)
木花咲郁姫命(このはなさくやひめ)
可愛山稜のそばに社が鎮座し、ご祭神は瓊瓊杵尊の后・木花咲郁姫命です。
付近に、木花咲郁姫命の御陵があるものと考えられています。
西郷菊次郎加療の地
西郷隆盛の長男・菊次郎は熊本の高瀬の戦いで負傷していました。
宿陣を置いた薩軍を追い、菊次郎も近くのお宅に身を寄せています。
西郷隆盛は、ここで菊次郎に別れを告げています。
政府軍の陸軍中将として延岡に来ていた、西郷隆盛の弟・西郷従道に会って投降するよう伝えました。
西郷隆盛の妻・イトも看病に訪れたといわれています。
桐野利明宿営の地
桐野利明は薩摩藩士であり、明治政府では陸軍少尉でした。
西南戦争では西郷隆盛とともに、薩軍の指揮官として戦っています。
可愛嶽突囲戦薩軍登山口
そこら中に政府軍が展開する中、薩軍兵士 600 名は闇に紛れ、可愛岳(えのだけ)の山頂へ向かっています。
可愛岳を突破した薩軍は、宮崎の山中を抜け鹿児島を目指すことになります。
まとめ
西郷隆盛が俵野に滞在したのは3日間です。
しかし、西郷隆盛宿陣跡資料館には、並々ならぬ多くの資料が展示されています。
これだけの資料を集めたことも驚きですが、無料で見せているのにもっと驚きました。
西郷隆盛は延岡の人たちにとても感謝していたといいます。
きっと今も同じ気持ちでしょう。
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