南洲神社は、鹿児島市上竜尾町にある神社です。

薩摩藩士西郷隆盛ゆかりの神社となります。
ご祭神

西郷隆盛命(さいごうたかもりのみこと) |
西南戦争の薩軍戦没者6800柱 |

近世の鹿児島の歴史を振り返るとき、必ず語られる西郷隆盛です。

親しみを込めた愛称は「西郷殿(せごどん)」ですが、敬意を表すときは「南洲翁(なんしゅうおう)」とよばれています。

西郷隆盛

西郷隆盛は言わずと知れた、薩摩藩の武士です。

NHK大河ドラマ「西郷どん」などで、全国的にも有名です。

長州藩(現在の山口県)、土佐藩(現在の高知県)とともに、明治新政府を樹立した立役者です。

1873年(明治6年)には、西郷自身の李氏朝鮮派遣をめぐって、同じ確摩藩出身の大久保利通らと対立することになります。

その結果、西郷はすべての官職を辞職し、鹿児島に戻ります。

鹿児島に戻った西郷隆盛は、私学校を開設し教育に専念していました。

1877年(明治10年)に、私学校生徒の暴動が、西南戦争に発展しています。

西郷隆盛は薩軍の指導者となりますが、官軍に敗れ城山で自害しています。

西南戦争

西南戦争というのは、1877年(明治10年)、西郷隆盛を盟主として、南九州の士族が起こした武力反乱です。

日本国内最後の内戦といわれています。

1876年(明治9年)の廃刀令と士族給与全廃により、各地で士族の反乱が起こっていました。

そのころ、明治政府では西郷隆盛の私学校が、政府への反乱を企てる人材を養成していという見方もありました。

私学では欧州に留学させるなどして、欧州の先端技術を学ばせていました。

実際に近代兵器を生産できる工場は、集成館事業で培った技術のある薩摩藩にしかありませんでした。

薩摩藩の反乱を恐れる政府は、24名の警察官を帰郷名目で私学校に送り込みます。

そのうち私学校幹部が、警視庁帰藩組が西郷暗殺を目的としていることを察知します。

これを契機として私学生徒が蜂起し、大規模な士族の反乱となりました。

どちらが勝った?

薩軍がまず向かったのは、まず熊本城です。

官軍は、熊本城内に熊本鎮台を置き薩軍を待ちました。

十分な備蓄と装備をもって籠城した官軍を、鎮台を包囲した薩軍は攻めあぐねます。

背後からの攻撃に包囲網を解いた薩軍は、抗戦しながらも官軍に押され南下をはじめることになります。

熊本県、宮崎県、鹿児島県では、6ヶ月に及び各地で両軍が交戦しました。

ついには鹿児島へ戻った西郷どんは、城山での最終決戦において被弾し自決しています。

薩軍の敗北は、日本の士族の終焉を意味していました。

南洲墓地

南洲墓地は、最終決戦で戦死した西郷隆盛以下薩軍兵士 40 名を仮埋葬したのがはじまりです。

のちに各県にちらばっていた、2023 名の将兵の墓がこの地に集められました。

1879年(明治12年)には参拝所が設けられます。

この参拝所が、1922 年(大正 11年)に南洲神社となったものです。

西郷南洲顕彰館

西郷南洲顕彰館(さいごうなんしゅうけんしょうかん)は、西郷隆盛に関する資料館です。

西郷隆盛や大久保利通、明治維新、西南戦争などの遺構や資料が展示されています。

幕末から明治維新にかけての薩摩藩に興味がある方におススメです。

わずかな入館料で見学できます。
南洲公園

一帯を南洲公園といいます。

南洲神社、南洲墓地、西郷南洲顕彰館など一連の施設は南洲公園内になります。

公園からは桜島が一望できます。

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