真幸駅(まさきえき)は、宮崎県えびの市にある JR九州肥薩線の駅です。

宮崎県で初めてできた鉄道駅であり、肥薩線としては唯一の宮崎県にある駅です。
真の幸せに入る

真幸駅は「真の幸せ」に通じる縁起の良い駅名のため、ひそかに人気があります。

1911年(明治44年)開業した当時の駅舎が現在も残っています。

逆Z型のスイッチバック構造の駅であり、鉄道マニアにも人気の駅です。

JR九州の観光列車「いさぶろう・しんぺい」号の停車駅でした。

というのも、2020年(令和2年)7月4日の熊本県南部豪雨により、八代駅から吉松駅の間が不通となりました。

現在2021年(令和3年)3月現在も、復旧の目途が立っておらず、真幸駅に入線する列車はいません。

それでも車で訪れる人は絶えないといいます。

無人駅ですが、地域の方々によりきれいに保たれています。

幸せの鐘

プラットホームには、「幸せの鐘」があります。

ちょっと幸せな人は1回、もっと幸せを願う人は2回、いっぱい幸せを願う人は3回鳴らすとされています。

もともとは、列車と乗客の幸せを願い、乗務員や保線員が鳴らしていた鐘です。

なぜ真幸(まさき)という名前なの?

駅名の由来ですが、駅ができた当時は村の名前が真幸村だったのです。

1950年(昭和 25年)に真幸町となっています。

1966年(昭和 41 年)には3町合併によりえびの町となり、自治体名としての真幸はなくなっています。

平安時代の文献には、「まさき」という地名が使われていた記録が残っています。

ねこ駅長?

真幸駅には、茶色のとらねこ「チャトラ」が勤務しています。

ねこ駅長?なのかと思いましたが、あまりにも自由すぎて駅長には向いていないのだとか。

駅で販売する食料品が、ネズミの被害に遭わなくなったのは、彼のおかげです。

真幸駅に幸福を運んできてくれたと、喜ばれています。

しかし、真幸駅には定時出勤ではないので、もし会えたらさらに幸運になれるでしょう。
田の神さぁ

田の神さぁというのは、「田の神さま」を石に刻み、豊作を願う風習です。

「たのかんさぁ」と読みます。

薩摩藩の独特の風習であり、旧領内各地でみられます。

各地で独自の姿をしていて、顔もさまざまです。

えびの市では、1986 年(昭和 61 年)から、「田の神さあの里づくり」に取組んでいます。

真幸駅の田の神さぁは、江戸時代からあるものではなく、「田の神さあの里づくり」の一環として置かれたものです。
山津波記念石

現在、真幸駅周辺には集落がありませんが、開業時から住宅がなかったわけではありません。

1972年(昭和 47 年)には、駅の裏山で土石流が発生し、駅周辺では 28戸もの住宅が被災しました。

被害を受けた全戸が転居したため、駅周辺の住民がいなくなってしまいました。

真幸駅のホームにある大きな石は、山津波記念石といって、土石流によって駅に流れ込んだ石です。

真幸駅
場所 宮崎県えびの市内堅947
肥薩線列車退行事故

それは終戦直後、1945年(昭和20年)8月22日のことでした。

吉松駅を発車した上り列車が、真幸駅直前の山神第二トンネル内で立ち往生しました。

D51型蒸気機関車の排煙が充満するトンネルから逃れようと、乗客はトンネル内を歩いて避難していました。

それを知らない主務機の運転士は煙から逃れようと、列車を後退させます。

狭いトンネル内で逃げ場も照明もないなか、多くの乗客が列車に轢かれてしまう大惨事となりました。

原因
- 戦地から復員した兵士で客車5両が超満員となり、増結した貨車8両にもたくさんの乗客が乗っていました。
- 戦争により粗悪な石炭が流通し、熱量が低かったため機関車が本来の性能を出せませんでした。
- 列車幅いっぱいの狭いトンネルのため退避場所がなく、照明も案内もない中の事故でした。
- 先頭に本務機、最後尾に後補機が連結されていたのですが、後補機の乗員も煙にむせ返って、指示を出せませんでした。

この事故により53名の方々が亡くなっています。

そのほとんどは、戦地から故郷へ向かっていた軍人さんでした。
肥薩線列車退行事故 復員軍人殉難碑
場所 宮崎県えびの市内竪
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