根占原の台場跡というのは、 鹿児島県南大隅町にある、薩英戦争の備えた砲台跡です。

錦江湾の入口を見渡す周辺は、台場公園として整備され観光地となっています。
さまざまなよび方

根占原台場跡には、さまざまなよび方があります。
- 根占原台場跡
- 根占原砲台跡
- 原の砲台跡
- 根占砲台跡
- 薩英戦争砲台跡
- 台場公園砲台跡

現地の案内板には、台場公園砲台跡と書かれていますが、 すべて同じ場所のことです。

スペック

高さ | 3m |
幅 | 4m |
石垣延長 | 60m |

駐車場から台場跡まで、170mが台場公園です。

公園からは、美しい錦江湾と開聞岳が見え観光地となっています。

石垣の砲門部分は当時のものですが、大砲はレプリカです。

根占原の砲台が実戦で使われることはありませんでした。

なぜ砲台が?

根占原の台場は江戸時代の終わりに、薩摩藩によって築かれています。

当初は大砲1門を備える小さな台場でした。

生麦事件の後、イギリス艦隊の錦江湾侵攻を察知して拡張されています。

生麦事件

1862年、武蔵国生麦村(現在の横浜市鶴見区)で発生した事件です。

東海道を進む薩摩藩の大名行列の間を、馬に乗ったイギリス人が横切ります。

無礼な行為として、薩摩藩士がイギリス人を殺害しました。

翌年、イギリス政府は艦隊を鹿児島に送り、犯人引き渡しと賠償を求めました。

薩摩藩はこれに応戦し、薩英戦争が勃発しています。

台場とは?

砲台が置かれた場所を台場とよびます。

全国的には、ペリー来航に備えた品川台場が有名です。

生麦事件により、錦江湾沿岸には数十カ所の台場が築かれました。

南大隅町だけでも3カ所に台場が築かれています。

- 瀬脇砲台(根占港入口の十柱神社裏)
- 上ノ山砲台(根占川北)
- 根占原砲台(根占辺田)
現在はどれも原型をとどめておらず、当時の姿を残すのは根占原の台場跡だけになっています。

斉彬公使用の手水鉢

1852年、薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)公は、大隅半島を巡検しています。

根占原の台場を訪れた際、使われた手水鉢(ちょうずばち)が残されています。

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