西内堅分校は、かつて宮崎県えびの市にあった真幸(まさき)小学校の分校です。
宮崎県でもっとも西にあった小学校でした。
えびの市
えびの市は、宮崎県のなかでも、もっとも西に位置する自治体です。
鹿児島県堺の町であり、薩摩国の島津氏と日向国の伊東氏の決戦地です。
なかでも旧真幸町の内堅地区は、いちばん西にあった地域です。
西内堅分校は、宮崎県最西端の小学校でした。
校内
西内堅分校跡には、平屋建ての新旧校舎が残っています。
木造校舎
木造校舎の外壁には、海の生物が描かれています。
えびの市には海はなく、山にかこまれています。
しかし、山で育つ子供たちほど、海にあこがれるものです。
絵柄は見事に、海の生物で統一されていました。
ガラス越しに見た室内には何もなく、きれいに片付けられています。
木造校舎の廊下の様子です。
新校舎
新校舎は、一番奥が校長室、その隣が職員室、そして玄関と並んでいます。
玄関より向かって左側に、教室がならんでいます。
晩年には新校舎だけで、管理棟と教室の機能が完結していたのではないでしょうか。
職員室もすっかり片付いています。
玄関にも掲示物のひとつも残されていません。
かろうじて、教室に残された備品の数々も片付け終わった感がでています。
廊下には、窓側に一直線に机が並べられます。
運動場
校舎の横には階段がありました。
こけむした階段を登るとそこには・・・
体育倉庫がありました。
そして、運動場がひらけています。
除草剤を使うと、このようになぜか苔だらけになるのです。
管理されている証拠ではあります。
旧校舎お別れ同窓会記念碑
運動場の脇にある、旧校舎お別れ同窓会記念碑です。
創立当初からの校舎は、記念碑周辺にあったということでしょうね。
記念碑周辺の現況は森です。
山津波
1972年(昭和 47 年)、内堅の集落を土石流が襲っています。
28戸もの集落が被災し、その全戸が引っ越してしまいました。
その4年後、土石流の痕跡が残る、1976年(昭和51年)の航空写真。
中央下が西内堅分校です。
校舎は被災しなかったものの、校区内の住民が一気に減少した自然災害でした。
土石流発生前に、約150人が事前に避難して無事だったのが少しの救いです。
沿革
1952年(昭和27年) | 真幸町立真幸小学校西内堅分校創立 |
1959年(昭和34年) | 真幸町立西内堅小学校として独立 |
1966年(昭和41年) | えびの町立西内堅小学校へ改称 |
1970年(昭和45年) | えびの市立西内堅小学校へ改称 |
1998年(平成10年) | えびの市立真幸小学校西堅分校へ改称 休校 |
2001年(平成13年) | 閉校 |
場所 宮崎県えびの市内堅
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