岡本城というのは、球磨郡あさぎり町岡原南にある中世の城跡です。
岡本城
現在、岡本諏訪神社のある場所は、岡本城の一部でした。
城郭は神社よりさらに高いところにあったと考えられます。
鎌倉時代には橘氏の居城であったと考えられています。
戦国時代になると、岡本地区の地頭であった相模守頼春が城主となりました。
さらに南北朝時代には、相良藩の支配下に置かれました。
その後は、相良氏一族が居城としています。
城としての遺跡が残り、整備はされています。
訪れる人が少ないのか、少し放置気味ではあります。
岡本諏訪神社
長野県の諏訪神社を祀った神社となります。
勧請経緯や創建年代はよくわかりませんでした。
現地の標柱によると、1558〜1570年に再興されています。
1628年に修理、1696年に拝殿修復とあります。
さらに、1951年(昭和26年)に現在地へ移転しているようです。
境内には、相良藩の家老、相良清兵衛の墓があります。
相良清兵衛は、晩年にこの岡本地区に住んだといいます。
相良清兵衛
相良清兵衛は、相良家の家臣で、関ケ原の戦いで戦果を挙げ、相良家を安泰に導き、お家存続に多大な貢献を果たした人物と評されています。
通称、清兵衛どん(せいびゃーどん)の愛称で親しまれたといいます。
1636年、清兵衛どんは68歳で、岡本地区に隠居しました。
家は単なる隠居屋ではなく、町屋を備える立派な隠居所にしようとしたそうです。
そのため、人吉から裕福な町人を集めて、一緒に移住したそうです。
人吉から裕福な人が移住したことで、人吉の町はさびれてしましました。
当時の藩主相良頼寛(よりひろ)は、大きな力を持ち過ぎた清兵衛どんを成敗したいと考えていました。
ところが、清兵衛どんは徳川家康も評価する人物です。
先の数代の相良藩主には、功績のあった人物でもありました。
下手すると相良家が取り潰しになる可能性もあります。
相良頼寛は、清兵衛どんの横暴を「清兵衛私曲13ヶ條」にして、江戸幕府に訴えました。
1640年に、幕府評定所で裁判が行われることになりました。
その結果、清兵衛どんは津軽藩弘前に流刑罪となったといいます。
岡本で暮らしたのはわずか4年で、弘前にて88歳で亡くなっています。