娑婆神峠

娑婆神峠 歴史上2度の激戦が繰り広げられた薩摩街道の難所

娑婆神(さばがみ・しゃばがみ)峠は、熊本県宇城市にある峠です。

娑婆神峠の石畳 標柱

古くからの街道にある峠ですが、しばしば熊本の心霊スポットのひとつとしてあげられています。

薩摩街道

娑婆神峠 遠景

娑婆神峠は、小野田部(宇城市小川町)から豊福(宇城市豊野町)へ至る峠です。

娑婆神峠 遠景

小野田部側はかつて山すそまで海がせまり、娑婆神峠は北へ向かうための主要道でした。

娑婆神峠 小川町側の上り口

江戸時代には、薩摩藩が参勤交代で通っていた街道です。

娑婆神峠 入口の標柱

しかし戦国時代までは、人馬が通るのも困難な難所でした。

娑婆神峠の石畳

1573年に、地域の人々が石畳を敷き通行しやすくしています。

娑婆神峠の石畳

響野原の戦い

娑婆神峠にあった大岩

人吉藩 18 代当主、相良義陽(さがらよしひ)は、大口(現在の鹿児島県伊佐市)併合の野望を持ち南へ進出しています。

町指定文化財 娑婆神峠の石畳

しかし、島津氏に大口城を奪取され、島津氏の傘下に入ることになります。

娑婆神峠の石橋

肥後国中央部への進出を企てる島津氏は、相良義陽に御船城の甲斐宗運(かいそううん)攻略を命じています。

娑婆神峠 舗装道の終端

相良義陽と甲斐宗運は、ともに不可侵を誓った盟友であり、島津氏の狙いは肥後国武将の分断でした。

娑婆神峠の石橋

娑婆神峠を越えた相良義陽は、響野原の戦いで甲斐軍に討ち取られています。

娑婆神峠を流れる小川

島津氏と甲斐宗運の間で板挟みになり、相良義陽はわざと敗北する布陣を取り、退却することもありませんでした。

娑婆神峠 舗装道の終端

響野原の戦い後、相良義陽の首を見た甲斐宗運は、涙を落したといわれています。

娑婆神峠 峠への道

西南の役

娑婆神峠 石橋と石畳

熊本城を包囲した薩軍に対し、福岡から進軍した官軍は薩軍の抵抗に苦戦していました。

娑婆神峠 石橋

官軍は南からも進軍し熊本を目指しています。

娑婆神峠の石畳

氷川そして小川の突破を許した薩軍は、娑婆神峠の守りを固め官軍の北上を止めようとしていました。

娑婆神峠の石畳

娑婆神峠では5時間にわたる激しい戦いの末、多勢に無勢の薩軍は峠を占領されています。

娑婆神峠の説明板

心霊現象

娑婆神峠の石畳入口と新道

現在の娑婆神峠は、車が通行できる新道になっています。

娑婆神峠の石畳入口

旧薩摩街道は通る人がいなくなりましたが、石橋と石畳の一部が史跡として保存されています。

娑婆神峠の石畳までの舗装道

武士の霊・男性の霊の目撃情報が報告され、心霊スポットといわれています。

娑婆神峠の石畳までの舗装道

2度にわたる決戦の地であり、ここで多くの武士が亡くなっているのは史実です。

娑婆神峠の石畳までの舗装道

娑婆とは?

娑婆神峠の石畳

娑婆は「さば」のほか「しゃば」と読みます。

娑婆神峠の石橋

娑婆というのは、仏教用語で現世を指します。

娑婆神峠の石橋

娑婆神という響きには、恐ろしいイメージがあります。

娑婆神峠の新道

しかし、直訳すると「現世神」なので、意味からは逆に神聖な感じがします。

娑婆神峠の新道

現代では、刑務所を出所するとき「シャバの空気はうまい」みたいな使い方をされます。

娑婆神峠 新道から旧道への入口

なので、恐ろしい意味はありません。

娑婆神峠 小川町側の菜の花

場所 熊本県宇城市小川町中小野

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