薩州島津家の墓

薩州島津家の墓 豊臣秀吉により断絶した薩州家歴代領主の墓所

薩州島津家の墓というのは、かつて鹿児島県出水市にある薩州島津家歴代領主のお墓です。

薩州島津家の墓

薩州島津家は島津家の有力分家でしたが、 豊臣秀吉の朝鮮出兵で断絶しています。

薩州島津家とは?

薩州島津家の墓 山田昌巌の墓 入口の標柱

薩州島津家初代・島津用久は、島津宗家第9代・島津忠国の弟です。

薩州島津家の墓 山田昌巌の墓 入口

宗家に代わり薩摩国の国人一揆を鎮め、現在の阿久根市と出水市一帯を治めました。

薩州島津家の墓 山田昌巌の墓 入口の標柱

出水城 (亀ヶ城)に入り、薩摩守と称したことから、薩州島津家とよばれるようになっています。

薩州島津家の墓までの道路

薩州島津家の終焉

薩州島津家の墓までの道路

薩州島津家は、一時は宗家当主の座を争う有力分家でしたが、家督争いは伊作家に敗れています。

薩州島津家の墓 石垣

以後は、宗家を継いだ伊作家に従います。

薩州島津家の墓 石垣

薩州島津家第7代当主・島津忠辰は、 豊臣秀吉の九州平定に際し、 宗家より早く降伏し本領を安堵されました。

薩州島津家の墓

ところが、朝鮮出兵の際には、宗家当主・島津義弘との別行動を秀吉に直訴します。

薩州島津家の墓

これは認めらえず、やむなく島津義弘と同行したものの、病気を理由に朝鮮に上陸しませんでした。

薩州島津家の墓

これが、 豊臣秀吉の逆鱗に触れ、領主の任を解かれています。

薩州島津家の墓

最も病気は嘘ではなく、島津忠辰は身柄を預けられた肥後宇土城主・小西行長の陣中で病死し、生きて薩摩へ帰ることはできませんでした。

薩州島津家の墓 説明板

達磨山西来院龍光寺跡

達磨山西来院龍光寺跡

薩州島津家の墓から、さらに奥へ道が続いています。

達磨山西来院龍光寺跡

奥は龍光寺の墓地になっています。

達磨山西来院龍光寺跡 墓石

現在の龍光寺はすぐ北側にあるので、旧本堂はこちらにあったということでしょう。

達磨山西来院龍光寺跡

巡見使の墓

巡見使の墓

巡見使(じゅんけんし)というのは、江戸幕府が大名の監視と情勢調査のため各藩に送っていた役人です。

史跡巡見使の墓 標柱

本来、薩州の者ではなく、江戸に帰るはずの者です。

巡見使の墓

巡見中に何らかの理由で亡くなったと考えられます。

巡見使の墓

山田昌巌の墓

山田昌巌の墓

山田尊厳(しょうがん)は薩州島津家亡きあと、1629年に第3代出水地頭として赴任しています。

山田昌巌 功労碑

産業振興や道路整備にも力を注ぎ、領民に慕われたといわれます。

山田昌巌 三百年祭記念碑

なかでも、青少年の教育・訓練の功績が称えられています。

山田昌巌夫人の墓

国境を守護する勇敢で徳を備えた、出水の若い武士を出水兵児(いずみへこ)といいます。

山田昌巌 記念碑

出水兵児を育てる気風をつくったのが、山田昌巌での教えでした。

山田昌巌の墓 説明板

恐怖の心霊スポット

薩州島津家の墓

実は薩州島津家の墓では、霊の目撃情報が寄せられていました。

刀を構えた鎧武者

首のない馬に乗る騎兵

心霊現象は、 豊臣秀吉により断絶された、 薩州島津家の怨みによるものといわれています。

薩州島津家の墓

明治維新後、墓所は手入れされず荒れていた時期があったといいます。

薩州島津家の墓

この時期の水害・凶作・天災も同様に薩州島津家の怨みといわれています。

薩州島津家の墓

恐れた住民により、墓所は丁寧に供養されたといいます。

戦後の怪談

薩州島津家の墓

時代は変わり戦後になると、再び墓所は荒れます。

薩州島津家の墓

墓所をたまり場にしていた、ある高校生の自宅が火事になり死者がでました。

薩州島津家の墓

また、バイクに乗っていたある高校生が溝に落ちる事故がありました。

薩州島津家の墓

状況から、運転していた高校生は、死亡か少なくともケガをしていると思われました。

薩州島津家の墓

しかし、 高校生の姿はどこにもなく、病院に運ばれた形跡もありませんでした。

薩州島津家の墓 標柱

それ以来、薩州島津家の墓で目撃されるのは、以下のような霊といいます。

焼け焦げた人間

水死体になりブクブクに膨れ上がった男子

場所 鹿児島県出水市武本2893

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