紫尾(しび)神社は、鹿児島県薩摩郡さつま町にある神社です。
古来より格式ある神社であり、別当寺の神興寺とともに悠久の史跡が残っています。
国史見在社
国史見在社(こくしげんざいしゃ)というのは、「六国史(りっこくし)」に記載のある神社のことです。
六国史というのは、わが国が飛鳥時代から平安時代前期に、国家事業として編集した史書です。
時代ごとに6つの史書が編纂されたため、六国史とよばれています。
六国史に記載のある神社は、ほとんどが式内社です。
国史見在社という場合、六国史に記載のある式外社を指します。
格式の高い神社として、後世になって特別視されることになっています。
祁答院七ヶ郷の総社
総社というのは、国司が神拝するときに、任国内の神社を巡拝してまわるのに手間がかかるため、区域内の神社を合祀した神社のことです。
紫尾神社は、祁答院(けどういん)七ヶ郷の総社であり七郷は以下の通りです。
山崎郷 | 現在の薩摩郡さつま町山崎 |
大村郷 | 現在の薩摩川内市祁答院町大村 |
黒木郷 | 現在の薩摩川内市祁答院町黒木 |
佐志郷 | 現在の薩摩郡さつま町佐志 |
蘭牟田郷 | 現在の薩摩川内市祁答院町藺牟田(いむた) |
宮之城郷 | 現在の薩摩郡さつま町宮之城 |
鶴田 | 現在の薩摩郡さつま町鶴田 |
これに入来と永野を加えて、祁答院九ヶ郷ともいわれていました。
入来郷 | 現在の薩摩川内市入来町 |
永野郷 | 現在の薩摩郡さつま町永野 |
北薩摩の総鎮守
総鎮守というのは、その区域の守り神のことです。
つまりは、その土地を守護するためにまつられた神のことを指します。
紫尾神社は、北薩摩の総鎮守といわれていました。
神の湯
一帯には温泉宿が立ち並び、紫尾温泉とよばれています。
なんと、泉源は紫尾神社の賽銭箱の下にあるのだそうです。
このことから、紫尾温泉のお湯は「神の湯」とよばれています。
ご祭神
日向三代をまつります。
- 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
- 彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
- 鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
創建は紫尾山をご神体とする山岳信仰で、紀元前は山頂に熊野の神をまつっていました。
西暦 500 年代前半に、紫尾山中で修行をしていた空覚上人にお告げがあり、山麓に紫尾山三所権現を創建しています。
紫尾山の反対側の山麓、出水市高尾野町にも紫尾神社があります。
山頂の社が上宮とよばれたのに対し、紫尾と高尾野の 2 社の紫尾神社が下宮という位置づけでした。
ご神体は 3 面の大鏡ですが、これは中世になってから源実朝が奉納したものといわれています。
鉱山の神さま
1659 年に宮之城領主、島津久通が紫尾神社を訪れた際、そのお告げにより永野金山が発見されたといわれています。
以後、金山発見の神として有名になり鉱山関係者の参詣が相次いだといいます。
さつま町においても、比較的交通の不便な場所に鎮座しています。
しかし、古くから社格が高く、現在でも毎年1万人もの人が初詣に訪れています。
紫尾天神
紫尾天神は、菅原道真公をご祭神とする境内社です。
学問・牛馬・武道の神として信仰されています。
空覚塔
空覚塔というのは、空覚上人を供養する五輪塔です。
紫尾神社の下宮となる紫尾三所権現を創建したのが、空覚上人です。
空覚上人は、別当時として紫尾山祁答院神興寺も開山しています。
のちに中世になると、神興寺には多くの修験僧が集まるようになり、西の高野山とよばれていました。
六地蔵塔と経塚
本殿裏側にある、六地蔵塔や経塚(きょうづか)は、神興寺のものです。
六地蔵塔は側面に6体の地蔵像が彫られている石柱です。
戦国時代、九州にある仏教寺院の入口などに盛んに建てられています。
特に紫尾神社の六地蔵塔は、県内最古のものといわれています。
経塚は、仏教経典を土の中の埋めた塚です。
聖地とされる場所に造られます。
方柱石塔場
2本の石柱は、鎌倉時代の終わりからこの地を治めた祁答院(けどういん)氏に関わります。
第4代祁答院行重が、第3代祁答院重松の供養のため建てたものです。
阿弥陀如来と薬師如来と2柱構成になっています。
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