宗麟原 (そうりんばる) 供養塔というのは、宮崎県川南町にある高城合戦の六地蔵塔です。
![宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
島津軍・大友軍双方の戦没者数千体が眠るといわれています。
かんかん仏
![宗麟原供養塔(かんかん仏)](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
宗麟原供養塔は、 高城合戦(耳川の戦い) の戦没者を供養するため建てられています。
![宗麟原供養塔(かんかん仏)](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
参拝者は、 供養塔のとなりにある鐘を 「かんかん」と鳴らしてから拝みます。
![宗麟原供養塔の石碑](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
そのため、別名を 「かんかん仏」とよびます。
![宗麟原供養塔 手水舎](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
谷に打ち捨てられた供養塔
![宗麟原供養塔入口の案内板](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
実は明治初めの廃仏毀釈のさい、 宗麟原供養塔は壊されたうえ、東側の谷に投げ捨てられていました。
![宗麟原供養塔入口の石柱](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
そのため、現在の供養塔は完全形ではないといわれています。
![宗麟原供養塔](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
大正時代に、現在の場所へ戻され、破損部分を代替材で補っています。
![宗麟原供養塔](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
豊後塚
![宗麟原供養塔](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
宗麟原供養塔とよぶようになったのは、 1933年(昭和8年)からです。
![豊後塚](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
島津氏の資料では、 豊後塚と書かれています。
![豊後塚](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
宗麟原供養塔の後ろを見ると、こんもりとした塚になっています。
![宗麟原供養塔(豊後塚)](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
高城合戦の戦没者を埋葬したと伝わります。
![豊後塚](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
その数は、 大友軍 4,000人、 島津軍3,000人を下らないといわれています。
![豊後塚](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
曰くの古戦場
![宗麟原供養塔](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
豊後塚では丑の刻参りをする人が目撃されています。
丑の刻 (午前1:00~3:00) の間に行う
寺社のご神木に、 憎い相手に見立てた藁人形を釘でうちつける
近くの陸橋では自殺が多かったり、 古戦場跡では武士の霊が現われるといわれています。
![宗麟原供養塔前の広場](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
川南検問所も、高城合戦の戦場のひとつといわれます。
川南検問所は、宮崎県川南町にある高鍋警察署の検問所です。 警察関係の施設なので安全安心のはずですが、なぜかやばいスポットといわれています。 検問所 検問所というのは、犯罪捜査や治安維持はた[…]
高城合戦(耳川の戦い)
![国指定史跡 宗麟原供養塔 説明板](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
1572年、木崎原の戦いで島津氏に敗れた伊東氏は勢力を失い、島津氏は日向国のほとんどを掌握しました。
![国指定史跡 宗麟原供養塔 説明板](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
一方、豊後国(現在の大分県) の大友氏は、北九州を攻略し一大勢力を築いていました。
![高城合戦 各陣営概略図](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
1578年、大友氏は日向国へ侵攻します。
![高城川合戦古戦場跡の説明板](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
延岡の土持氏を取り、 高城 (現在の木城町) で島津氏勢力と対峙しました。
![高城川合戦古戦場跡の説明板](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
高城川原 (現在の小丸川) で、 両軍合わせて10万人ともいわれる大激戦となりました。
![高城合戦古戦場 耳川の戦い 大友氏本陣跡](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
最初は大友軍が押込みますが、次第に島津軍優勢となります。
![高城合戦古戦場](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
敗走する大友軍は増水した耳川流域に追い詰められ、 島津軍が大勝しています。
![高城合戦古戦場](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
高城川 (小丸川) から耳川にかけての一帯は、 屍で埋まったといわれています。
![高城合戦(耳川の戦い)古戦場跡](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
六地蔵塔
![宗麟原供養塔 六地蔵塔](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
島津氏の家老・山田新介が、 高城合戦と耳川の戦いの七回忌に、両軍の戦死者を供養するため建てたのが、宗麟原供養塔です。
![宗麟原供養塔 六地蔵塔](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
六地蔵塔というのは、6体の地蔵像が彫られた灯籠型の供養塔です。
![宗麟原供養塔 六地蔵塔](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
島津氏が戦った合戦場に、 敵味方区別なく供養塔として、 島津氏が建てていました。
![宗麟原供養塔 六地蔵塔](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
そのため、 六地蔵塔は九州に分布が集中しています。
九州平定
![大分県山香町瑞倉寺有志が建てた大慈悲の碑](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
高城合戦で勝利した島津氏は、肥後国(現在の熊本県)や肥前国(現在の長崎県と佐賀県)をも配下にし、 九州統一を目指します。
![大分県山香町瑞倉寺有志が建てた合掌の碑](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
ついには大友氏の本拠地・豊後国への侵攻がはじまると、 大友宗麟は豊臣秀吉を頼ります。
![宗麟原供養塔に隣接する農地](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
1586年、豊臣秀吉の九州征伐軍と島津軍は、再び高城で戦うことになります。
![切原川にかかるほたる橋](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
百戦錬磨の島津氏でしたが、 豊臣軍勢の圧倒的な兵力と鉄砲隊に苦しみます。
![切原川](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
一連の戦いで島津氏は敗北、本領である薩摩国と大隅国へ戻ることになりました。
![切原川にかかるほたる橋](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
2度に渡り大合戦が繰り広げられた、 高城一帯には多くの戦国武将たちが眠っています。
![切原川](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
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