宗麟原 (そうりんばる) 供養塔というのは、宮崎県川南町にある高城合戦の六地蔵塔です。
島津軍・大友軍双方の戦没者数千体が眠るといわれています。
かんかん仏
宗麟原供養塔は、 高城合戦(耳川の戦い) の戦没者を供養するため建てられています。
参拝者は、 供養塔のとなりにある鐘を 「かんかん」と鳴らしてから拝みます。
そのため、別名を 「かんかん仏」とよびます。
谷に打ち捨てられた供養塔
実は明治初めの廃仏毀釈のさい、 宗麟原供養塔は壊されたうえ、東側の谷に投げ捨てられていました。
そのため、現在の供養塔は完全形ではないといわれています。
大正時代に、現在の場所へ戻され、破損部分を代替材で補っています。
豊後塚
宗麟原供養塔とよぶようになったのは、 1933年(昭和8年)からです。
島津氏の資料では、 豊後塚と書かれています。
宗麟原供養塔の後ろを見ると、こんもりとした塚になっています。
高城合戦の戦没者を埋葬したと伝わります。
その数は、 大友軍 4,000人、 島津軍3,000人を下らないといわれています。
曰くの古戦場
豊後塚では丑の刻参りをする人が目撃されています。
丑の刻 (午前1:00~3:00) の間に行う
寺社のご神木に、 憎い相手に見立てた藁人形を釘でうちつける
近くの陸橋では自殺が多かったり、 古戦場跡では武士の霊が現われるといわれています。
川南検問所も、高城合戦の戦場のひとつといわれます。
川南検問所は、宮崎県川南町にある高鍋警察署の検問所です。 警察関係の施設なので安全安心のはずですが、なぜかやばいスポットといわれています。 検問所 検問所というのは、犯罪捜査や治安維持はた[…]
高城合戦(耳川の戦い)
1572年、木崎原の戦いで島津氏に敗れた伊東氏は勢力を失い、島津氏は日向国のほとんどを掌握しました。
一方、豊後国(現在の大分県) の大友氏は、北九州を攻略し一大勢力を築いていました。
1578年、大友氏は日向国へ侵攻します。
延岡の土持氏を取り、 高城 (現在の木城町) で島津氏勢力と対峙しました。
高城川原 (現在の小丸川) で、 両軍合わせて10万人ともいわれる大激戦となりました。
最初は大友軍が押込みますが、次第に島津軍優勢となります。
敗走する大友軍は増水した耳川流域に追い詰められ、 島津軍が大勝しています。
高城川 (小丸川) から耳川にかけての一帯は、 屍で埋まったといわれています。
六地蔵塔
島津氏の家老・山田新介が、 高城合戦と耳川の戦いの七回忌に、両軍の戦死者を供養するため建てたのが、宗麟原供養塔です。
六地蔵塔というのは、6体の地蔵像が彫られた灯籠型の供養塔です。
島津氏が戦った合戦場に、 敵味方区別なく供養塔として、 島津氏が建てていました。
そのため、 六地蔵塔は九州に分布が集中しています。
九州平定
高城合戦で勝利した島津氏は、肥後国(現在の熊本県)や肥前国(現在の長崎県と佐賀県)をも配下にし、 九州統一を目指します。
ついには大友氏の本拠地・豊後国への侵攻がはじまると、 大友宗麟は豊臣秀吉を頼ります。
1586年、豊臣秀吉の九州征伐軍と島津軍は、再び高城で戦うことになります。
百戦錬磨の島津氏でしたが、 豊臣軍勢の圧倒的な兵力と鉄砲隊に苦しみます。
一連の戦いで島津氏は敗北、本領である薩摩国と大隅国へ戻ることになりました。
2度に渡り大合戦が繰り広げられた、 高城一帯には多くの戦国武将たちが眠っています。
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