タイ捨流(しゃりゅう)剣法とは、人吉藩相良氏の家臣、丸目長恵(ながよし)通称、丸目蔵人佐(くらんどのすけ)によって創始された兵法です。
タイ捨流の意味
タイ捨流の「タイ」というのは、東南アジアの国「タイ」とは違います。
漢字で書くと「体・待・対・太」が当てはまります。
なぜカナで書くかというと、複数の意味があるからです。
「体」と書けば体を捨てるにとどまり、「待」と書けば待つを捨てるにとどまり・・・
漢字で書くと意味が限定されます。
カナで書くことでいずれの意味にも通じるからです。
要は、これらの雑念を捨て去り、ひとつひとつの言葉にとらわれない自在の剣法を意味しています。
特徴
最大の特徴は「右半開に始まり左半開に終わる、すべて袈裟斬りに終始する」独特な構えです。
剣法にとどまらず、様々な地形での戦いを想定した体の使い方、飛び違い相手を錯乱する技や、けり、目つぶし、関節技などの体術を取入れた、より実践的な剣法になります。
タイ捨流剣法は九州一円に広まり、人吉藩や肥前藩一帯で盛んに行われました。
現在も人吉で相伝されています。
丸目長恵(ながよし)通称:丸目蔵人佐(くらんどのすけ)
人吉藩相良氏の家臣です。
1540年、戦国時代の生まれになります。
初陣は15歳、薩摩兵が人吉に攻めてきたとき武功を挙げました。
長恵は20歳で上京(京都のこと)し、新陰流を創始した、上泉伊勢守英綱の弟子となりました。
24歳のころには伊勢門下の四天王のひとりとされるほど腕を上げます。
28歳で秀綱より印可状を受け、九州に戻り相良藩の兵法指南役を勤めました。
薩摩藩との戦いに明け暮れる中、独自の工夫によりタイ捨流を開流したといわれています。
九州一円に、タイ捨流の弟子がいたといいます。
丸目蔵人佐の墓
晩年には現在の球磨郡錦町で、開墾に従事しながら隠居生活を送りました。
1629年、89歳で亡くなっています。
1989年(平成元年)丸目蔵人佐の墓は、町の有形文化財に指定されています。
2017年(平成29年)タイ捨流剣法は、日本遺産人吉球磨の構成文化財48番となっています。
夏目友人帳の聖地?
丸目蔵人佐の墓付近の道は、3期 第1話 「妖しきものの名」 で、夏目がおばばと出会う道のモデルとされています。
竹林が整備されていますので微妙です。
©緑川ゆき・白泉社/「夏目友人帳」製作委員会