田辺小学校は、かつて宮崎県高城町(現在の都城市) にあった、公立小学校です。
半世紀以上前に閉校しながらも、木造校舎が現存しています。
創立は戦後
田辺小学校の創立は戦後となります。
このあたりには、戦後開拓のため外地からの引揚げ者などが入植しました。
戦後開拓というのは、食糧難にあたり国策として行われた農地開拓事業です。
宮崎県では川南町が有名ですが、県の南西部も開拓地として開放されています。
人が増えれば当然子供も増えるわけで、小学校が設置されたものです。
半世紀以上前に閉校
田辺小学校は1972年(昭和47年)、創立からたった22年で閉校しています。
同じ旧高城町内の有水小学校までは距離にして4km余り。
車社会となり、道路事情の改善や交通網の整備を考えると、短命に終わったのは必然かもしれません。
なお、閉校時の田辺小学校の生徒数は38名。全員が有水小学校へ編入されています。
残る木造校舎
田辺小学校跡には、驚くべきことに現在も木造校舎が残っています。
以前は縫製会社が工場として利用していて、運動場側は増築されたうえ合板で補強されています。
反対側からみると学校の面影があるのですが、運動場側から見ると昔の工場の雰囲気が残ります。
校舎の一番端の看板を見ると、「第14 田辺公民館」と書かれています。
半世紀以上校舎が残されたのは、工場や公民館として利用されてきたおかげともいえます。
田辺かくれ念仏洞
田辺地区には戦前には人が住んでいなかったかというと、そんなことはありません。
江戸時代には、一向宗信者が薩摩藩の禁止令にもかかわらず信仰を続けた、かくれ念仏洞が残されています。
島津氏は当時の封建社会に反する考えの一向宗を禁止しています。
しかし、熱心な信者たちは山の中や洞窟などに仏具を隠し、こっそり信仰を続けていました。
こうした一向宗の信仰拠点を、 かくれ念仏洞とよびます。
田辺かくれ念仏洞は、都城市周辺では最大規模のものとなっています。
沿革
1950年 (昭和25年) | 高城町立有水小学校田辺分教場として創立 |
1963年 (昭和38年) | 高城町立田辺小学校として独立 |
1972年 (昭和47年) | 高城町立有水小学校と統合し閉校 |
場所 宮崎県都城市高城町有水
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