富岡吉利支丹供養碑(とみおかきりしたんくようひ)というのは、熊本県苓北町にある史跡です。

天草島原の乱で戦死した一揆軍の慰霊のために建てられた石碑です。
千人塚

富岡吉利支丹供養碑は、島原の乱により天領となった後、1647年に初代代官・鈴木重成公が慰霊のため建てた石碑です。

地元では千人塚とよばれる首塚に建てられています。

首塚には天草島原の乱で戦死した一揆軍、3000人以上の首級が埋められています。

一揆軍の戦死者は1万人に及びましたが、ここ天草富岡と長崎西坂そして雲仙愛野に3分割され埋葬されました。

天草島原の乱

1637 年に勃発した島原の乱は、弾圧に反発したキリシタンが起こした反乱と説明されています。

実のところ一揆軍には、年貢の取り過ぎに苦しむ農民や漁師、それに商人が多数を含まれていました。

さらには、キリシタン大名だった小西行長に仕えた浪人や、もともとの土着領主であった天草氏や志岐氏も加わり、だだの一揆とは違う様相を呈していました。

当時、天草四郎は16歳でしたが、キリシタンの間ではカリスマ的人気があったため、一揆軍の総大将として担がれたものです。

一方幕府軍は、九州諸藩のみならず全国から兵力を集めこれを討伐しています。

島原の乱の後、島原藩の松倉勝家は斬首刑、天草領を納めていた唐津藩の寺沢堅高は、天草領を没収されました。

心霊スポット

富岡吉利支丹供養碑は慰霊のための石碑なのですが、根本は首塚です。

首塚ではありがちですが、富岡吉利支丹供養碑も例にもれず、心霊スポットとして数えられます。
- どこからともなくうめき声が聞こえる
- 女性の霊や落武者の霊が現われる
一揆軍の討伐は、蜂起したキリシタンのみならず家族や子供にも及んだといわれます。

生活もままならないほどの年貢や、キリスト教弾圧に苦しんだ上に討死したものたちの怨念が残るといいます。


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