柳原分校は、かつて熊本県球磨郡水上村江代にあった、古屋敷小学校の分校です。
球磨川最上流の小学校
柳原分校は、球磨郡でも最奥地にあった、山間の学校です。
球磨川水源に行く途中、柳原分校あたりの集落が、最も水源に近い集落となります。
以前は、さらに奥にも集落があったのですが、木材、薪炭、シイタケなど山産物で生計が維持できなくなると、みんな山をおりてしまいました。
製材工場跡
柳原あたりの集落が、最後まで残ったのは、製材工場があったからです。
比較的大きな製材工場で、多くの社員を抱えていたはずです。
この集落でも、一番近くて収入が得られる勤め先でした。
国産木材の価格は、1980年(昭和55年)ころをピークに、下降の一途をたどってきました。
対して、機械や車両、燃料などの経費は上昇する一方です。
事業として成立しなくなったら、操業を止めるのが企業の懸命な選択です。
工場がなくなると、社員たちは次々と集落を後にしました。
現況
柳原分校が休校となったのは、1985年(昭和60年)のことです。
製材工場が操業を止めたのは、それよりかなり後でした。
2001年(平成13年)、本校である古屋敷小学校が岩野小学校と統合し、閉校となるのに伴い、柳原分校も岩野小学校と統合し、閉校しました。
まあ、長い間休校となっていましたから、柳原分校に生徒はいなかったのですけど。
製材工場の操業停止と、柳原分校の閉校とは直接の関係はないようです。
ただし、この集落の過疎化に影響したのは、間違いないと思います。
柳原分校が休校となった後も、長い間校舎は残されていました。
しかし、今回訪れた時には、校舎は解体され更地になっていました。
校庭のあったところには、休憩所と公衆トイレが建てられていました。
分校跡の道沿いに流れる川が、球磨川です。
下流で見る球磨川と違って、びっくりするほど水が透明です。
分校の生徒たちは、こんなきれいな川で泳いでいたのだろうなあと思いました。
この後、峠越えで五木に行きたかったのですが、通行止めとなっていました。
復旧の目途は立っていないのか、当面の間通行止めと書いてあります。
まあ、山間の道路ではよくあることなので、気にせず来た道を戻りました。
沿革
1920年(大正9年) | 古屋敷尋常高等小学校柳原分教場として創立 |
1941年(昭和16年) | 古屋敷国民学校柳原分教場へ改称 |
1947年(昭和22年) | 水上村立古屋敷小学校柳原分校へ改称 |
1985年(昭和60年) | 休校 |
2001年(平成13年) | 岩野小学校へ統合、廃校 |
場所 熊本県球磨郡水上村江代
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