矢瀬が津留(やせがつる)観音は、相良三十三観音霊場の3番札所です。
相良氏入国以前の人吉城主、矢瀬主馬佑(しゅめのすけ)をまつる観音さまです。
矢瀬主馬佑とは?
相良家初代長頼(ながより)が入る前の人吉は、平氏の所領でした。
人吉城を居城としていたのは、平頼盛の代官、矢瀬主馬佑です。
1198年、相良長頼が源頼朝より人吉荘の地頭を命じられます。
長頼が人吉城に入城しようとすると、矢瀬主馬佑はこれを断りました。
そこで、長頼は現地の有力地頭、平川義高の協力を得て、人吉城に入ろうと画策します。
平川氏は、大みそかの夜に川狩りをしょうと、矢瀬氏を胸川の河川敷に誘い出しました。
平川氏は河川敷に降りた矢瀬氏一族を一網打尽にしました。
その結果、相良氏は平川氏に迎えられ人吉城に入りました。
由来は増運寺
相良氏が矢瀬主馬佑を謀殺した胸川沿いを、矢瀬が津留といいます。
相良氏は、この矢瀬が津留に、矢瀬主馬佑をまつるお寺を建てました。
お寺の名前を「増運寺」といいます。
矢瀬が津留観音は、増運寺のご本尊です。
のちに増運寺は廃寺となり、観音堂だけが残りました。
1862年に観音堂が火災にあい、ご本尊だけが運び出されました。
現在の矢瀬が津留観音堂は、火災後に現在地に移されたものです。
観音堂の正面には消防団の詰所があり、駐車禁止と大きく書かれています。
ただし、矢瀬が津留観音をご参観される方は駐車できます。
ご本尊
ご本尊は木造の十一面観音菩薩立像となります。
1862年の火災の時も焼けずに残りました。
人吉市の重要文化財に指定されています。
一本門松
門松というのは、正月に門に立てる門松のことです。
ふつう2本を対で作り、門の両端に立てます。
この付近(現在の東間下町と東間上町)では「一本門松」という風習が残っています。
矢瀬主馬佑の家臣は、大晦日に門松を作っていた時に、胸川での騒ぎを聞きました。
作った1本の門松を残し、現場に駆け付けたが、間に合わなかったことに由来しているといいます。
かつての君主、矢瀬氏を供養するための風習です。
矢瀬主馬佑の墓
増運寺があった場所には、矢瀬主馬佑の供養塔(お墓)があります。
供養塔が建てられたのは1730年で、増運寺の閉山ころといわれています。
堤防の下に見える胸川の河川敷が、まさに川狩りをしていた場所です。
1958年(昭和33年)には人吉市の史跡となっています。
矢瀬ヶ津留(矢瀬主馬佑の墓)
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