旧垂水港フェリーターミナルは、1998年(平成10年)まで使われていた垂水フェリーの旅客港です。
現在は2㎞南側にある、新垂水フェリーターミナルがその機能を引き継いでいます。
垂水フェリー
垂水フェリーは、薩摩半島と大隅半島を結ぶ重要交通路です。
大隅半島から鹿児島市へ向かう場合、陸路だと大きく迂回することになり、極端に遠回りになります。
垂水フェリーなら、一直線で薩摩半島と大隅半島がつながることになります。
そのため歴史は古く、1914年(大正3年)に航路を開設しています。
しかし、半年で廃業したのち、1918年(大正7年)に定期船を復活させ、以来今日まで運行が続く航路です。
このときの功労者が、時の肝属郡会議長・町田一平翁です。
旧ふ頭に功労碑が建てられています。
1960年(昭和35年)に南海郵船に社名を変えたころ、いわさきグループの経営となりました。
フェリー化されたのは、1974年(昭和49年)のことです。
現在も1日25 往復の定期便が運行されています。
旧垂水港
1998年(平成10年)に新ターミナルができたことから、垂水港は移転しています。
旧垂水港は、戦前から使われていた旅客港です。
以前のフェリーターミナルは、1970年代から使われていたもので、昭和時代らしいデザインが特徴です。
現在も解体されずに、旧垂水港に残っています。
ただし、危険なため立入禁止の表示がされています。
一部2階建てで、 2階からフェリーとをつなぐスチール製の通路が伸びていました。
通路の出入口は塞がれ、スチール製の通路も撤去されています。
新ターミナル移転後、しばらくは旧ターミナルはイベントなどで使われていました。
しかし、今やその役目も終えています。
ターミナル内には、当時の時刻表や運賃表が掲示されたままです。
毎日たくさんの人が出入りしていた玄関ですが・・・
今となっては、出入りすらできません。
旧フェリーふ頭
1998年(平成10年) まで、フェリーが接岸していた旧ふ頭です。
桜島が見通せるロケーションです。
もちろん鹿児島市も見えます。
フェリーに自動車を乗せていた可動橋(ランプウェイ)も残っていました。
産業遺構としては価値がありますが、今は経済的にお金を生み出すことはありません。
ランプウェイの 可動橋 を操作する建物です。
建物内の設備も当時のまま残っています。
同じく建物内の分電盤です。
多くの自動車が次便を待った待機用駐車場です。
ランプウェイ越しに見たターミナルです。
第六垂水丸沈没事故
垂水フェリーターミナルのかたわらには、第六垂水丸沈没事故の慰霊碑が建てられています。
戦前、鹿児島~垂水航路は、1日 10.5往復の運航をしていました。
ところが、戦時下に入ると船舶の供出と燃料不足により、減便を余儀なくされます。
1944年(昭和19年)になると、戦況の悪化にともない、1日4往復となっています。
1944年(昭和19年) 2月6日(日曜日)、当日は西部 18連隊の面会日でした。
大隅各地から戦地へ旅立つ前に面会しようと、垂水港には朝からたくさんの乗客がおしかけます。
9時20発の第六垂水丸には、乗船券が手に入らなかった乗客も詰めかけ、定員をはるかに超える乗客が乗船しました。
船長は危険を感じて、出航を見合わせます。
ところが、軍人が日本刀で脅し出航を求めたため、30分遅れの9時50分に出航します。
200m 沖に出て、鹿児島港方向へ舵を切ったところでバランスを崩し転覆してしまいました。
700 名以上の乗客が、冬の海に投げ出され 547 名が亡くなられています。
あまり知られていませんが、国内では洞爺丸事故に次ぐ、史上2番目の海難事故です。
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