蜂の巣城というのは、下筌ダムと松原ダムの建設反対派が築いた砦(とりで)です。
13年にも及ぶ紛争は、国の公共事業のあり方を変えることになりました。
室原知幸さん
室原知幸さん(1899~1970)というのは、蜂の巣城紛争におけるダム反対派の代表です。
宮原知幸さん公表情報
- 水没地となる熊本県小国町志屋地区の出身
- 早稲田大学政治学科へ進学
- 28歳の時小国町へ帰り、家業の林業に従事
- 37歳からは、小国町町議会議員3期を経て、町の公安委員長を歴任
- 室原家は大資産家で、広大な山林を所有
蜂の巣城紛争は、室原さん抜きで語ることはできません。
昭和28年西日本水害
1953年(昭和28年)梅雨の集中豪雨が九州北部を襲っています。
福岡県・佐賀県・熊本県・大分県を流れる河川ほぼすべてが氾濫します。
筑後川の下流域でも死者147名、家屋流失4,400戸という戦後最悪の大水害になりました。
これを受け、九州最大の河川・筑後川の上流には、下筌ダムと松原ダム建設が計画されました。
蜂の巣城紛争の発端
1956年(昭和31年)、建設省九州地方建設局(九地建)は松原・下筌ダムの予備調査を開始します。
このさい、所有者に断りなく山に入り木を伐採していました。
また田畑に入り、耕地を荒していた例もあったといいます。
そのうえ、調査がダム建設のためであることは、住民には全く知らされていませんでした。
志屋地区住民への説明会が開かれたのは、1957年(昭和32年)のことです。
志屋地区住民説明会
- ダム建設が必要であることの説明のみに終始
- 水没住民の生活再建策や補償の説明は一切なし
- はじめて自宅が水没することを知る住民は動揺
- 調査で田畑を荒されたこともあり、住民は九地建をはげしく非難
- 九地建は「対策委員会を作って抗議してくれ」と言い放ち説明会は解散
住民説明会の結果、住民は九地建に対し不信感を抱き、ダム反対の声をあげるようになります。
室原さんはもともとダム反対ではなかったし、説明会の中でも発言はなかったといわれています。
それどころか、日頃温厚な志屋の人々が、説明会の中で九地建を激しく非難したことに驚いていたといいます。
宮原さんはダム説明会の数日後、ダム反対の意思を示し、反対運動の先頭に立つことになりました。
町を挙げたダム反対
大分県側の水没地4村では、積極賛成ではないにしても、目立った反対運動はおきていません。
一方、志屋集落ではじまった九地建との面会謝絶は、小国町の水没集落すべてに広がりました。
志屋集落には、室原家と同じく、小国町の一大山林所有者である北里家があります。
当時県会議員だった、北里栄雄さんも当初からダムには反対でした。
町議会では「建設絶対反対」の決議を採択し、町を挙げてダム反対を訴えるようになります。
蜂の巣城築城
1959年(昭和34年)、小国町側住民との交渉が進まない中、九地建は土地収用法の適用を決め、地質調査をはじめます。
これに対し、反対派は下筌ダム建設予定地の右岸(小国町側)に監視小屋を建設しています。
住民が絶えず常駐して九地建の監視を行ったのが、「蜂の巣城」のはじまりです。
代執行が近づくと、監視小屋は増設され、建物同士はわたり廊下でつながれていきました。
蜂の巣岳の斜面が城のような様相を呈していったため、「蜂の巣城」とよばれるようになりました。
代執行水中乱闘事件
1960年(昭和35年)九地建は代執行のため、津江川に仮橋をかける工事をはじめます。
これに対し反対派が激しく抵抗、津江川では乱闘さながらのもみ合いとなりました。
大分・熊本両県警が沈静化しますが、建設省側に17名の負傷者がでてしまいました。
室原さんはじめ反対派3名に、公務執行妨害で逮捕状が出される騒ぎとなっています。
期限内に蜂の巣城に入りたい九地建でしたが、激しい抵抗に遭い執行を断念しています。
ダム事業は膠着状態となりました。
反対派の分裂
このころになると、労働組合や活動家が反対運動に加わるようになります。
次第に水没集落住民の想いとは外れた、反政府運動の一面をみせるようになります。
また反対運動が長くなるにつれて、住民らの将来の生活に対する不安も増していきます。
1963年(昭和38年)、室原さんら反対派が提訴した、事業認定無効確認訴訟の敗訴が確定します。
これを受け、北里県議や町議会も条件付き賛成に転換することになります。
長い闘争に時間を費やすよりも、早く生活再建を果たしたい住民も同じです。
決戦
1964年(昭和39年)、すでに国有地として収用裁決された蜂の巣岳の山腹の強制代執行が始まります。
反対派の籠城隊は約700名、九地建隊は約600名。そして熊本・大分両県警の700名。
下筌の谷には大勢の見物客も詰めかけ、大騒動となりました。
暴力的な抵抗ははく、反対派は城の外へと担ぎ出されていきます。
最期まで籠城した室原さんも、説得され山を下りています。
このときの一部始終は動画に記録され公開されています。
法廷闘争
蜂の巣城紛争では、一連の実力闘争がフューチャーされています。
しかし、聡明なうえ学才のある室原さんは、どちらかといえば法廷が主戦場でした。
それは、原告被告双方の立場で、80数件の裁判をしていたことから明らかです。
「暴には暴・法には法」といい、六法全書が武器だったといわれています。
蜂の巣城の築城、法廷での闘争と、宮原さんが反対運動で費やした私費は1億3千万円に上るといわれています。
紛争の終結
蜂の巣城落城後も、室原さんは、第2・第3の蜂の巣城を建て、法廷でも徹底的に抵抗しています。
しかし、1965年(昭和40年)になると、志屋集落は条件派の転出で25世帯から12世帯に減少します。
翌年には志屋集落の住民は10人になりました。
1967年(昭和42年)には、下筌・松原両ダムの本体工事がはじまっています。
1969年(昭和44年)になると、水没予定地に残るのは室原さんのお宅だけになっていました。
住民説明会の後、室原さんがダム反対を決めたとき、最後までやり通すと決めています。
今更心中を測ることはできませんが、最初から最後は孤立することがわかっていたのかもしれません。
室原さんもダムが完成することはわかっていて、天鶴隧道や貫見大橋の建設を九地建に要望し実現させています。
1970年(昭和45年)、自宅の明け渡しを待たずして、心筋梗塞症で急死されています。
室原知幸記念碑
室原さんが、公共事業の進め方に対して求めたのが、「理に叶い、法に叶い、情に叶う」ことです。
国は公共の利益を追求するだけではなく、不利益を受ける住民個人の人権も尊重しなければならないということでしょう。
蜂の巣城紛争をきっかけとして、水源地域対策特別措置法(水特法)が制定されることになります。
場所
蜂の巣城跡 | 熊本県阿蘇郡小国町黒渕 |
下筌ダム | 大分県日田市中津江村栃野 |
室原知幸記念碑 | 熊本県阿蘇郡小国町黒渕 |
しもうけ館 | 大分県日田市中津江村栃野 |
松原ダム | 大分県日田市天瀬町出口 |
己が意志力と能力のあらん限りを燃焼し尽くしてダム建設反対の鬼と化し、ただ一人で国家と拮抗し、ついに屈することのなかった蜂の巣城城主・室原知幸。
「法には法、暴には暴」のスローガンの下、奇抜な山砦戦術、芝居っ気たっぷりな作戦。
そして六法全書を武器として果敢に闘った室原の凄絶な半生を、豊富な資料と丹念な聞き書きをもとに、躍動する文体で描ききった感動の記録文学大作。
関連記事
【関連記事】下筌ダム 南筑平野を洪水から守る筑後川水系唯一のアーチ式ダム
【関連記事】国鉄宮原線 玖珠森町から阿蘇小国の高原地帯を走っていた鉄道路線