比木神社は、宮崎県児湯郡木城町にある神社です。
昔も今も、児湯地域東部住民の守護神です。
社記
創建は成務天皇在位のころ、時代でいえば古墳時代になります。
ヤマト政権が日本の統一政権として確立して間もない時期です。
要は、とても古い時代からある神社です。
以来、児湯地域の氏神として信仰されてきました。
高鍋藩の中心神社
奈良時代に築城された高鍋城は、土持氏の居城でした。
戦国時代に伊東氏の所領となると、伊藤四十八城のひとつとして数えられています。
時の城主、落合兼朝と伊東家の確執から、一時は島津氏の支配下となっています。
関ヶ原の戦いの後、秋月氏が所領としたのが日向国の一部、高鍋藩でした。
1604年に高鍋城に入城し、以後明治維新まで居城としています。
高鍋藩秋月家が氏神としていたのが、比木神社です。
江戸時代には、高鍋藩の宗教策の中心的祈願神社で、藩内で最も篤く尊崇されました。
ご神木
クスノキ
鳥居の横にある大木がクスノキです。
推定樹齢は400年を超えています。
もう一本、参道にはみ出して生えるご神木があります。
これまた、りっぱなクスノキです。
高鍋藩によると、1596年には大木だったことが記録されています。
チシャノキ
チシャノキは、本殿右の森の中にあります。
宮崎の巨樹百選の看板があるので、すぐわかります。
推定樹齢は300年をこえています。
チシャノキは本州から沖縄の、川沿いの林の中などで見ることができます。
ただし、大木に育っているものは、全国でも珍しいといいます。
足でふむ手水
コロナウイルスの感染防止のため、神社参拝も作法が変化しています。
まず大勢で行かないとか、前後の方と間隔をあけるといった参拝者が心がけることがあります。
神社の方では、大鈴を鳴らせないように片付けてあります。
その最たるものが、手水舎です。
ひしゃくを見なくなりました。
いさぎよく、手水がなくなった神社も多いです。
比木神社の手水は、テコの原理を応用したくみ上げ式です。
足でふむ方式は、はじめて見ました。
最初戸惑いますが、慣れれば感染予防には効果的です。
ご祭神
かつては、五社大明神とよばれており5柱を祭神としていました。
- 素盞嗚命(すさのをのみこと)
- 櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
- 大己貴命(おおなむちのみこと)
- 三穂津姫命(みほつひめのみこと)
- 事代主命(ことしろぬしのみこと)
のちに百済の王族、「福智王(ふくちおう)」が合祀されています。
お祭りが年8回もあるのにも驚きました。
大鳥居
比木神社の大鳥居があるのは、小丸川沿いです。
比較的新しいので、近代になってから建てられたものかと思いましたが・・・
初代大鳥居は、1752年に建てられています。
大鳥居の南側に、福智王の陵墓とされる五輪塔があります。
福智王のお墓
福地王は、百済(くだら)の王族です。
百済というのは、古代に朝鮮半島の南西部にあった国です。
当時、朝鮮半島には北に高句麗(こうくり)、東に新羅(しらぎ)があり、三国時代とよばれていました。
百済は、660年に高句麗と新羅の侵攻により滅亡することになります。
王族であった、禎嘉王は家族とともに日本に逃れています。
渡航中に漂流し、長男である福智王とは別行動になってしまいます。
百済復活を恐れる新羅は、日本まで討伐軍を送り、迎え撃った禎嘉王らは戦死しています。
福智王は、木城の村里の兵とともに、討伐軍の撃退に成功しました。
比木に住んだ福智王は、徳行があり尊崇されたため、神として比木神社にまつられています。
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