百太郎溝というのは、熊本県球磨郡南部を水田化するのに必要だった、農業用かんがい用水路のことです。
球磨川から取水していて、首頭(取水口)は多良木町にあります。
農民が作った用水路
百太郎溝の工事は鎌倉時代にはじまり、江戸時代まで何世代も引き継がれて進められました。
藩の援助もなく、特別な指導者もおらず、農民だけの手作りで進められたといわれています。
後に工事が始まった幸野溝が藩命によってなされたのとは対照的でした。
百太郎溝の工事は1500年代の終わりごろはじめられました。
完成した部分から用水をはじめながら、少しづつ延伸しています。
総延長19㎞の百太郎溝が完成するまで、なんと100年以上の年月がかかっています。
百太郎伝説
この時代の最大の課題は、取水堰です。
何度も取水堰を造っていますが、洪水のたびに壊れていました。
盤石な百太郎堰の完成には、伝説があります。
百太郎伝説 その1
この地方では川が氾濫するたび田畑が流され、村人は困っていました。
ある時、「裾に二本の線がはいった着物を着た人物を人柱に立てよ」という神のお告げがありました。
その着物を着た人物、百太郎さんに白羽の矢が立ちます。
轟音とともに橋の柱にくくりつけられた百太郎さんの声は、一晩中、村に響き渡ったといいます。
それからは、水害はぴたりとやみました。
百太郎伝説 その2
百太郎溝の建築を進めていましたが、樋門はたびたび流されていました。
夢枕に立った水神のお告げによって、百太郎さんは石の柱の下に人柱として生き埋めにされました。
その場所に堰門を築いてからは、樋門は流されなくなったといいます。
百太郎伝説 その3
百太郎さんは百太郎溝工事の技術者で、藩命によって溝堰の建築に携わっていました。
彼の意見で作られた堰門が一夜の豪雨で流されたため、責任を負って自殺しました。
【または、自ら水神のお告げを受けたとして人柱を志願しました。とも伝わります。】
堰門の脇にある松の巨木は、百太郎さんの墓標であるといいます。
諸説ありますが、百太郎という人物の犠牲により、難工事が完遂できたというのは同じです。
人々は大雨の降るごとに百太郎のことを考え、この溝を百太郎溝とよぶことにしました。
1704年につくられたこの取水堰は、以降1960年(昭和35年)まで使われ、田畑に水を送り続けることになります。
現役で活躍する用水路
百太郎溝は過去の遺物ではなく、現役で活躍中です。
1957年(昭和32年)にはじまった、球磨川南部土地改良事業は、1967年(昭和42年)に完工しています。
これにより、百太郎溝は、漏水の多い土水路からコンクリート張りの近代的水路に生まれ変わっています。
このとき、取水口も近代化されることになります。
取水口の上流にかかる百太郎橋から、取水堰の全景を見ることができます。
増水すると球磨川は、堰の上を越流します。
取水口の横にある百太郎公園で、取水口の旧樋門を見ることができます。
1961年(昭和36年)旧取水堰は多良木町指定の史跡となりました。
2006年(平成18年)農水省の疎水百選に認定されます。
2015年(平成27年)日本遺産人吉球磨の構成文化財33番となります。
2016年(平成28年)国際かんがい排水委員会のかんがい施設遺産に登録されました。
オレンジ色の部分が百太郎溝の受益地、さらにその南部のグレー色が幸野溝の受益地です。