百太郎溝 100年の大工事と百太郎の犠牲により完成

百太郎溝というのは、球磨郡南部を水田化するのに必要だった農業用かんがい用水路のことです。

農民が作った用水路

百太郎溝の工事は、鎌倉時代から江戸時代まで、何世代も引き継がれ、農民総出の手作りで進められたといわれています。

百太郎溝は藩の援助も、特別な指導者もおらず農民だけで掘りぬかれました。

後に工事が始まった幸野溝が藩命によってなされたのとは対照的でした。

歴史

第1期工事は1500年代の終わりごろはじめられました。

この工事で、取水口から仁原川までができあがります。

第2期工事は1677年から1680年で、井口川までがつながりました。

第3期工事は、1696年から1697年で、免田川までつながります。

第4期工事は1704年から1705年までで、原田川まで完成しました。

100 年を越える大工事の末、総延長19㎞の百田溝ができあがっています。

その後、さらに延伸工事をしていますが、第5期工事は未完成のままとなっています。

百太郎伝説

名称の百太郎は、人柱にたった伝説に由来します。

諸説ありますが、百太郎という人物の犠牲により、難工事が完遂できたというのは同じです。

  1. 昔、この地方を流れる川の氾濫で、田畑が流される災害がたびたび起こり村人が困っていた。ある時、「裾に二本の線がはいった着物を着た人物を人柱に立てよ」という神のお告げがあった。その着物を着た人物、百太郎さんに白羽の矢が立った。轟音とともに、橋の柱にくくりつけられた百太郎の声が、一晩中、村に響き渡ったという。それからは、水害はぴたりとやんだ。
  2. 上記の話とほぼ同じだが、殉死の方法が異なり、百太郎溝の建築を進めていたが、度々樋門が流されるので、夢枕に立った水神のお告げによって百太郎さんは石の柱の下に人柱として生き埋めにされた。その場所に堰門を築いてからは安全になった。
  3. 人物像が異なり、百太郎さんは技術者であったとし、藩命によって溝堰の建築に携わっていたが、彼の意見で作られた堰門が一夜の豪雨で流されたため、責任を負って自殺した。または自ら水神のお告げを受けたと称して人柱を志願した。堰門の脇にある松の巨木は、百太郎さんの墓標であるという。

主水堰の構築も何度も行ったが、洪水期を迎えるたびに崩壊していました。

百太郎のおかげで盤石な堰が完成しています。

人々は大雨の降るごとに百太郎のことを考え、この溝を百太郎溝とよぶことにしました。

1704年につくられたこの取水堰は、以降1960年(昭和35年)まで使われ、田畑に水を送り続けることになります。

現代

1957年(昭和32年)、市房ダムの建設工事がはじまると、関連した球磨川南部土地改良事業もはじまりました。

同事業は1967年(昭和42年)に完工しています。

百太郎溝は、漏水の多い土水路からコンクリート張りの近代的水路に生まれ変わりました。

1961年(昭和36年)旧取水堰は多良木町指定の史跡となりました。

2006年(平成18年)農水省の疎水百選に認定されます。

2015年(平成27年)日本遺産人吉球磨の構成文化財33番となります。

2016年(平成28年)国際かんがい排水委員会のかんがい施設遺産に登録されました。

百太郎溝取水口旧樋門

場所 熊本県球磨郡多良木町多良木1274

くま川鉄道百太郎橋梁