幸野溝 球磨郡南部を水田化

幸野溝は、幸野ダムより取水し、球磨郡南部をかんがいする用水路です。

百太郎溝以南の農地に水を送っています。

水路延長は15.4㎞に及びます。

藩命により作られた幸野溝

幸野溝の歴史は江戸時代に入ってからになります。

1696年、藩の命により工事がはじまりました。

百太郎溝が農民だけで作られた用水路であるのに対し、幸野溝は相良藩の直轄工事であり、財政的にも藩の支援がありました。

当時の相良藩にとって財政を立て直すには、新田の開発と米の増収が必要命題であったといわれています。

取水堰の不運

工事は球磨川の度重なる洪水、相良藩の財政窮乏による資金不足、当時の土木水準により困難を極めました。

特に取水堰は完成直前の1699年、大洪水で流出、復旧後の1701年にも大洪水が発生し再び堰は流失します。

2度の堰の流失に、藩も資金拠出を渋ることになります。

幸野溝の工事を指揮した相良藩の役人、高橋政重は工事再開のため、一軒一軒水路の必要なことを説明して歩き、資金を集めたといいます。

藩も政重の努力を認め工事再開を認めました。

こうして、幸野溝は1705年に完成をみています。

結果的にこの工事で相良藩は、約3,000石の増収となったと推測されています。

幸野溝と百太郎溝の功績

幸野溝と同時期に完成した百太郎溝により、球磨郡南部の荒れ地は見事な水田に変わっていきました。

この2つの溝は、人吉球磨地域を県内有数の稲作地帯に押し上げるきっかけを作ったとされています。

球磨焼酎もこの両溝がなかったら、この地の文化として形成されなかったかもしれません。

完成から300年が経った現在も現役の用水路として農地を潤しています。

現代

用水路の受益地では今でも米が主要作物ですが、工芸農作物、ハウスメロン、野菜、畜産、花木など、生産性の高い複合農業を営む農家が多く、農業所得の高い地域になっています。

1958年(昭和35年)より、市房ダム建設に関連した球磨川南部土地改良事業により、幸野溝は大改修をしています。

1997年(平成9年)から2004年(平成16年)にかけては、再び県営かんがい排水事業により大改修を行っています。

2015年(平成27年)、日本遺産人吉球磨の構成文化財33番となっています。

2016年(平成28年)、国際かんがい排水委員会のかんがい施設遺産として登録されています。

取水口

場所 熊本県球磨郡湯前町浜川

取水堰からしばらくは土堤の中を流れますので溝を見ることはできません。

幸野溝は市房ダム第二発電所に分水した後、地上に現れます。

かと思えば、今度は山越えのため隧道を通ります。

隧道を越えた幸野溝は、都川を渡り湯前町の水田地帯へ向かいます。

幸野ダム諸元

名称幸野(こうの)ダム
場所熊本県球磨郡湯前町字焼尾5051
水系球磨川
河川球磨川
型式重力式コンクリート
事業者熊本県
施行者西松建設
ダム湖
目的かんがい用水/発電
最高出力
(発電)
2,300kw
堤高21.2m
堤頂長90.5m
堤体積6千㎥
流域面積161.1㎢
湛水面積6ha
総貯水容量326千㎥
有効貯水容量112千㎥
着手/竣工1958/1959