金山分校(きんざんぶんこう)は、かつて鹿児島県薩摩郡さつま町にあった永野小学校の分校です。
永野金山で栄えたまちも閉山により、子供たちが少なくなったため本校と統合されました。
永野金山のまち
かつて、このあたりには永野金山があり、多くの住民がいました。
1640 年に金が発見されてから、1953年(昭和 28年)の閉山まで、300年以上もの間採鉱されていました。
現在も金山遺構を見ることができます。
明治時代に近代化を果たした金山は、永野に大規模な製錬所を建てています。
永野製錬所の最盛期には、1,000 名以上の従業員が働いていました。
永野金山の隆盛は昭和初期まででした。
戦後、産金量が減少し、1953年(昭和 28年)に閉山しています。
金山とともに歩んだ学校
永野製練所には夜学校がつくられ、独自に金山の幹部を養成していました。
金山分校は、教育熱心な金山で働く人たちが、子供たちを通わせていた学校です。
永野金山の閉山後もしばらく残っていました。
しかし、児童数の減少から 1968年(昭和 43年)に、本校である永野小学校と統合しています。
遺構群と分校跡に建てられた工場
遺構はほぼなくなっています。
学校跡の入口に、正門の門柱が移築されています。
門柱の間を奥に進むと、学校跡の碑があります。
閉校後跡地には、2社の工場が建てられました。
工場は現在も稼働していて、金山閉山後の雇用創出に貢献しています。
確認できた金山分校関連遺構は、これですべてです。
向かって左側の門柱です。
同じく右側の門柱です。
3つの石柱は学校とは、無関係のようです。
中央はお墓で、向かって左には水神さまの石柱です。
向かって右側も、水神さまの石柱でした。
案内板によると、1892年(明治25年)から、1901年(明治44年)までは分校ではなく、金山小学校つまり本校でした。
同じく案内板には、分校跡地の工場は「藤絹織物工場」と「内山製作所」と書いてありました。
隅々を見てみたいところですけど、「現在ここから先は民有地なので入らないで!」という意味です。
沿革
1884年(明治17年) | かやぶき小屋で創立 |
1886年(明治19年) | 永野簡易小学校金山分教場となる |
1892年(明治25年) | 金山小学校として独立 |
1901年(明治44年) | 永野尋常小学校金山分教場へ改称 |
1941年(昭和16年) | 永野国民学校金山分教場へ改称 |
1947年(昭和 22年) | 永野村立永野小学校金山分校へ改称 |
1954年(昭和29年) | 薩摩町立永野小学校金山分校へ改称 |
1968年(昭和43年) | 薩摩町立永野小学校と統合 閉校 |
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