小椎葉小学校は、かつて宮崎県西都市にあった公立小学校です。
訪れると、周辺に集落はなく、山の中に学校跡だけが現われます。
山村の学校
西都市と合併する前の東米良村は、典型的な山村でした。
村域に対し、九州山地の険しい森林地帯が9割を占めます。
村内には、山深く斜面を切り開いた土地に集落が点在していました。
そのため、小規模校が多数分散することになります。
もともと村の財政は豊かとはいえない中、学校教育は大きな負担になっていました。
そこで、1954年(昭和29年)には、統廃合を進める計画がありました。
しかし統合校から遠く離れる集落では、強い抵抗がありました。
それもそのはず、安全とはいえない7㎞の山道を、片道2時間かけて通学させることになります。
まずは、道路の改良や送迎手段を講じないと、統廃合は難しく計画は立ち消えになります。
学校再編
東米良村の公立学校再編が動き出すのは、1960年代に入ってからです。
一ツ瀬ダム建設により2校が水没するのと、河川沿岸の道路改良がすすんだためです。
一ツ瀬川と銀鏡(しろみ)川流域の公立学校では、一気に統廃合が進んでいます。
1954年(昭和29年)の計画では、小葉小学校は尾八重小学校への統合が計画されていました。
しかし、ダム建設にもかかわらず、この山深い地区の状況は変わりませんでした。
学校の問題は、1962年(昭和37年)の市村合併により、西都市に引き継がれることになります。
結果から言うと、現在、東米良村域に残っているのは、銀上小学校(旧銀鏡小学校)と銀鏡中学校だけです。
しかも、西都銀上学園という小中一貫校となっており、実質的には1校のみです。
その他の学校は、西都市立穂北中学校と穂北小学校へ統合されています。
西都市が引き継いだ、東米良地域の学校再編の経過は以下の通りです。
小椎葉地区
もはや、学校周辺に集落はみつかりません。
かつては、南へ下ったところに小椎葉集落がありました。
しかし、最近の国勢調査では人口は0となっています。
小椎葉集落へ行くには、瓢丹渕(ひょうたんぶち)から行くのが最短距順です。
しかし、打越川沿いの細い道を進むことになります。
尾八重地区から行くには、尾八重川の谷深い急斜面の沿いを進みます。
いずれにせよ、落石を避けながら低速で行くことになります。
1950年代~60年代の道路事情を想像すると、学校統廃合はムリだったことがわかります。
木造校舎
集落に人がいないことで、使われなくなった校舎は、廃墟化してしまいました。
昭和時代には多くの卒業生が訪れていますが、平成時代に入ると黒板の記録も減っています。
小椎葉小学校は、 1980年(昭和55年) に閉校しています。
教室のひとつには、1996年(平成8年)のカレンダーがかけてあります。
それまでは、何らかの地域施設として使われていた証拠です。
しかし、今となっては使用する住民がいません。
給食室が校舎内にあります。
道路事情から、小学校内で給食を作っていたのでしょう。
図書室内には、本棚だけが残っています。
記念碑群
記念碑は、校地の最南端に並びます。
危なく見落とすところでした。
「奮起」と書かれた石碑は、創立100周年記念碑です。
礎石の碑文には、「創立百年に當り之を建立する」と書かれています。
そして、閉校記念碑です。
苔むし具合が、閉校後の年月を感じさせます。
裏面には、校区となる地区名と、学校の沿革が書かれています。
ちなみに校区は、樅木尾・打越・小椎葉・大椎葉・瓢丹淵・元鎮・小中尾・尾八重下です。
国旗掲揚台には、スチール製ポールが錆びずに立っていました。
沿革
1878年(明治11年) | 樅木毘沙門店屋敷に創立 |
1879年(明治12年) | 小椎葉小学校と称す |
1895年(明治28年) | 現在地へ移転 |
1902年(明治35年) | 実業補習科を設置 |
1903年(明治36年) | 裁縫科を設置 |
1941年(昭和16年) | 小椎葉国民学校へ改称 |
1942年(昭和17年) | 高等科を設置 |
1947年(昭和22年) | 東米良村立小椎葉小学校へ改称 |
1962年(昭和37年) | 西都市立小椎葉小学校へ改称 |
1980年(昭和55年) | 閉校 |
場所 宮崎県西都市尾八重303
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