久米治頼(はるより)神社は、1566年、相良家第17代当主、晴広(はるひろ)の命で、地頭東加賀藤原頼秀と宗方氏範等が建立した神社です。
相良治頼は、人吉藩相良家の家臣で、16代当主相良義滋(よししげ)に仕えていました。
相良治頼
相良治頼は、頭がよく武道にも優れ、その人柄から多くの人に信頼されていたといいます。
球磨郡の家臣のなかには、その人となりに心服し、謀反をそそのかすものもいました。
治頼もついにその気になり決意したものの、内通者によりすぐに露見しました。
ほどなく、義滋が治頼の切腹を命じるつもりであるという話が伝わりました。
治頼は観念して自害しようとしましたが、味方に説得され人吉の兵と一戦交えます。
敗退した治頼は、日向国(現在の宮崎県)に逃れ、さらに豊後国(現在の大分県)に移住した後、1546年に佐賀関で病死しました。
相良治頼のたたり
治頼のたたりが原因で、相良義滋もほどなくして亡くなったと伝えられます。
1549年、治頼とその母のたたりがあるということで、相良家第17代当主晴広は、治頼神社を逃走先となった久米に造り、その霊を祀りました。
社殿には木造の男女神坐像が祀られます。
1964年(昭和39年)、社殿、神体ともに多良木町指定の重要文化財となっています。
2015年(平成27年)、日本遺産人吉球磨の構成文化財の26番となっています。
社殿
勘代寺の裏手の山の中にあります。
神社の下まで舗装道路が入っていますが、つきあたりはUターンも困難な行き止まりになっています。
車は下に停めて参られることをおススメします。
天満宮
このあたりも社寺が集中しており、かつては一大聖地であったのかもしれません。
久米治頼神社のすぐ近くには天満宮があります。
多良木町で天満宮といえば、多良木天満宮が有名なのですが、久米にも天神さんがありました。
久米治頼神社とお間違いがないように、念のため。