国見分校は、かつて旧栗野町(現在の湧水町)にあった、幸田(こうだ)小学校の分校です。

国見分校を語るには、同時に国見集落を語らずにはいられません。
国見金山

旧横川町からさつま町にかけては、山ケ野金山と永野金山が栄えたことで知られます。

山ケ野金山や永野金山から、さらに山奥にあった鉱脈が国見金山です。

国見金山は、現在でいうと湧水町の町域になります。

1642年に幕府から採鉱が許可されています。

しかし、その年に突然休止命令がでて開発が中断されています。

1656年に開発を再開し、2~3年後から本格的に採鉱がはじまりました。

国見金山に住んだのは、豊後国(現在の大分県)から招かれた技術者たちでした。

金山開発が中断された13年間に、石垣を築き、集落を形成して採鉱に備えたと推測されています。

幸田の棚田もこの13年の間に拓かれたものと考えられています。

国見集落

幸田から峠を下ると、永野に下る道と国見川を登る分岐に差し掛かります。

このT字路が国見集落の中心地です。

1916年(大正5年)に、近代化のため採鉱は永野金山に集約され、国見金山は閉鎖されました。

このとき、国見集落には30数戸の住宅があり、閉山後も集落は維持されてきました。

しかし、高度成長期になると、山間の小集落を過疎化の波が襲います。

平成時代には超限界集落となっています。

現在はお住まいの方は1人もいない、いわゆる廃村です。

まだ住めそうな住宅が1軒だけ残っています。

実は2010年代まで、1世帯だけ住民がいらっしゃいました。

しかし、拝見した感じでは、もう数年はお留守のようです。

国見小学校

国見小学校があったのは、集落の中心のT字路から少し北寄りの高台です。

道沿いの上り口に標柱が建てられているので、一目瞭然です。

もともとは、独立した小学校だったのですが児童数の減少に伴い、1956年(昭和31年)に幸田小学校の分校となりました。

さらに、1969年(昭和44年)には廃校となっています。

校舎の名残りが、礎石と積まれた瓦に見られます。

校門は、現在の上り口とは反対側です。

当時は、この山道が通学路でした。

よく見ると通学路の階段はコンクリート製です。

そして校地には、閉校記念碑が建てられています。

記念碑には国見分校の沿革史が刻まれます。

側面には工事費の負担金額が書いてあります。

「町5万円、国見校区3万円」

学校跡地から山の方に道が開けているので、山に入ってみました。

滑車のついた木材は、遊具のものでしょうか?

奥には建物の基礎があるので、学校関係の建物だったと考えられます。

住宅みたいなので、職員住宅か宿直室といったところでしょう。

さらにその奥に石碑があります。

しかし、碑文は永年の浸食で消えかかり、読むことができませんでした。

ピンクテープがあるので、この先にも何かあるのでしょうが、登山の準備はしていません。

これ以上、奥に入るのは断念しました。

金山遺構

集落に戻り、国見川沿いを見てみます。

国見川が氾濫したのか、かなり荒れています。

集会所があった場所ですが、建物はきれいに解体され更地になっています。

廃村後も、人の手が入っている証拠です。

さらに奥に進むと住居跡があります。

この先は山道になっています。

金山遺構はこの先なのでしょうが、登山の準備はしていません。

坑口などの建造物が残っているので、行ってみようとも思いましたが・・・

ここで引き返します。

次はT字路から永野の方へ下ってみます。

住居跡らしき場所はありますが、建物はすでにありません。

国見川沿いを下る道は、あまり使われていない様子で、車で通るのはやめました。

沿革

1891年(明治24年) | 寺小屋式夜学校創立 |
1901年(明治34年) | 国見尋常小学校となる |
1941年(昭和16年) | 国見国民学校へ改称 |
1947年(昭和22年) | 栗野町立国見小学校へ改称 |
1956年(昭和31年) | 栗野町立幸田小学校国見分校となる |
1969年(昭和44年) | 栗野町立幸田小学校と統合し閉校 |

場所 鹿児島県姶良郡湧水町幸田
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