宮ヶ原千人塚というのは、 鹿児島県曽於市にある史跡です。
戦国時代の争乱で亡くなった、 多くの武士たちをまつる塚となります。
宮ヶ原の戦い
戦国時代、島津氏は薩摩半島ですら統一できていませんでした。
大隅半島は高山城を居城とする肝付兼続の配下にありました。
一方、都城に本拠を構えた北郷(ほんごう) 時久は島津家の有力分家です。
北郷氏は、勢力を拡大し北上する肝付氏と対峙することになります。
1558年、 恒吉郷宮ヶ原でおきた、 肝付氏と北郷氏の戦いを宮ヶ原の戦いといいます。
宮ヶ原の戦いでは肝付氏が勝利し、 当主・時久の叔父である、 久履をはじめ多くの家臣が討ち死にしています。
千人塚は2千人ともいわれる両軍の戦死者を祀るためにつくられています。
北郷久履の墓
北郷久履 (ほんごうひさいえ ・? ~ 1558) は、 都城島津家の前身となる北郷氏の戦国武将です。
肝付氏との激戦・宮ヶ原の戦いで戦死しています。
宮ヶ原千人塚の前に墓が建てられています。
宮ヶ原の戦いの直後に建てられたのではなく、後世建てた供養塔といわれています。
首切り塚
宮ヶ原千人塚に埋められている遺体は、 千人どころか2千人に上るといわれています。
のちに島津氏により統一された大隅から、武将同士の争乱はなくなっています。
しかし、千人塚は首切り塚とよばれ、地域の人には戦場の記憶が残りました。
そのうち、首のない死体があたりをさまよっているといううわさが流れています。
江戸時代までは死人が行きかう呪われた地といわれていました。
心霊現象
周辺は現在、 田園がひろがるのどかな農業地帯となっています。
しかし、宮ヶ原千人塚では、現代も怪現象が報告されています。
- 塚の樹に男の顔が浮かび上がり、さけび声をあげた
- おびただしい数の白骨が山積みにされた光景が浮かび上がった
宮ケ原の戦いで亡くなった武士たちが、自分たちのことを忘れ去られることがないように、そして後世に語り継がれるように、時々現世に表れているとも考えられます。
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