尾八重(おはえ)小中学校は、かつて宮崎県西都市にあった公立学校です。
同名の小学校が椎葉村にもありましたが、本記事は旧東米良村の尾八重小学校について書いています。
尾八重地区
尾八重地区へ行くには、西都市街から九州山地へ入り込みます。
尾八重小中学校跡の標高は490mです。
「おはえ」という地名は、古くから使われてきました。
もともとは雄八重と書いていましたが、尾八重となったのは米良氏が領主となってからです。
古来から引き継がれる、尾八重神楽が有名です。
校庭にある聖域は、尾八重神楽が奉納される場所です。
創立百周年記念碑
校門の奥にある石碑は、創立百周年を記念するものです。
書は、宮崎を一大観光地に育てたと評される時の宮崎県知事・黒木博氏によるものです。
体育館
山間の傾斜地が多い尾八重地区において、体育館のような大きな建造物は貴重です。
災害時はもちろん、大きめのイベントを行う際にも使うことができます。
ガラス越しに内部が見えそうなので、のぞいてみました。
物の置き方からみると、主用途がスポーツではなくなっているのがわかります。
しかし、雨漏りのあとなどは一切なく、現役で使われていることもわかります。
閉校記念碑
閉校記念碑は百周年記念碑と比べ小ぶりです。
これは、この時期に閉校した西都市立公立学校の共通規格です。
当時のPTAの熱意とか、後援企業がないとかという問題では一切ありません。
碑文によるとピーク時の生徒数は、小学校104名、中学校36名でした。
しかし、閉校時には小学校6名、中学校2名に減じたと書かれています。
しかもそれが、1982年(昭和 57年)というから衝撃です。
旧校門
運動場の南側に、大きな門柱がありました。
先には石段が続きます。
車社会となる以前、子供たちが通学していた校門です。
歴史の中では、こちらのほうが永く使われた正門でした。
表札が掛かっていた金具が残されています。
尾八重公民館
尾八重小中学校は、閉校時の姿がほぼそのまま残されています。
大きな変化といえば、旧校舎の真ん前に建てられた公民館です。
1982年(昭和57年)に閉校した校舎は、公民館へ転用されたものと思います。
しかし、木造校舎は老朽化が進みます。
建替することになりましたが、校舎のような大きな建物は不要です。
しかも、目の前に広々とした運動場があります。
ならば、運動場に新築したほうが効率的となったのでしょう。
そのおかげで、旧校舎の全容が公民館で見えなくなりました。
しかし、新旧建物のバランスが微妙なシュールな風景を見ることができます。
廃墟purelove日記 尾八重小中学校
ちなみに、上の写真は現在の公民館ができる前のものです。
木造校舎
旧校舎は、保存状態は良くいい感じを醸し出しています。
しかし、さすがに老朽化は避けられません。
扉が開いていたので中をみせてもらいましたが、この通り天井がはがれ落ちはじめています。
東端にある建物は、さらに古い時代のものです。
給食の調理室として使われていた建物でした。
反対の西側には、2階建ての校舎があります。
壁はモルタル造、窓枠はスチール製です。
平屋建ての校舎よりは、新しい時代のものです。
とはいえ、老朽化を免れているわけではありません。
北側へまわってみました。
この時代の学校建物は、トイレは別棟にしてあります。
タオルがかけてあるのは、現役で使われている証拠です。
沿革
尾八重小学校
1875年(明治8年) | 米良小学校尾八重支校として創立 |
1876年(明治9年) | 尾八重小学校として独立 |
1889年(明治22年) | 東米良村立尾八重尋常小学校へ改称 |
1904年(明治37年) | 東米良村立尾八重尋常高等小学校へ改称 |
1941年(昭和16年) | 尾八重国民学校へ改称 |
1947年(昭和22年) | 東米良村立尾八重小学校へ改称 |
1962年(昭和37年) | 西都市立尾八重小学校へ改称 |
1982年(昭和 57年) | 西都市立岩井谷小学校と統合し閉校 |
尾八重中学校
1947年(昭和22年) | 東米良村立東陵中学校尾八重分校として創立 |
1969年(昭和44年) | 東米良村立尾八重中学校として独立 |
1962年(昭和37年) | 西都市立尾八重中学校へ改称 |
1982年(昭和57年) | 西都市立穂北中学校へ統合し閉校 |
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