六ヶ村城(ろっかんじょう)トンネルは、宮崎県都城市にあるトンネルです。
2003年(平成15年)に完成した、比較的新しいトンネルとなります。
六ヶ村城
六ヶ村城(ろっかんじょう)は、北郷(ほんごう)氏が築いた山城です。
北郷氏の家系は、島津氏から分家したことにはじまっています。
室町時代から戦国時代には、一帯の豪族から攻撃を受けています。
しかし、六ヶ村城は堅牢で、ことごとく侵攻を防いだといわれています。
廃城となったのは、1616年の一国一城令によるものです。
観光地
都城市では、評価の高い山城として本丸跡を公園化しています。
しかし周辺の木で、展望というほど見通しがいいわけではありません。
アクセス道路の未整備具合から、観光地としての優先度は高くないことがわかります。
スペック
延長 | 310m |
幅 | 8,5m |
高さ | 4.7m |
竣工 | 2003年(平成15年) |
発注 | 緑資源公団九州支社 |
施工 | 清水建設・農村基盤建設 |
心霊スポット
トンネルの完成で三股町から国道222号線へ向かう際、大幅にショートカットできるようになりました。
しかし、開通当初から霊の目撃情報があります。
- 車道脇に生首が置かれていた
- 馬に乗った鎧武者が追いかけてきた
- 車道のど真ん中に血だらけの女性と女児が立っていた
怪現象は、近くにあった六ヶ村城が関係しているといわれています。
廃城後
六ヶ村城の伝説は、廃城で終わりません。
本丸は放棄されましたが、山中で外からは見えないため解体はされませんでした。
ところが、人知れず山賊が住み着くようになり、周辺集落では山賊に襲われる事件が相次ぎます。
城が残っていることを知らない住人たちは、近くに山賊がたむろしているとは思ってもいませんでした。
男たちは斬殺され、女子供は連れ去られ、山賊たちは周辺集落を浸食していきました。
賊狩り
1655年、山賊たちの蛮行を知った薩摩藩(島津家)は、1,000人規模の殲滅部隊で六ヶ村城を包囲します。
しかし、もともと堅牢だった城の攻略に手こずり、入城に1か月を要しています。
城中に入った兵士たちは、凄惨な光景を目にすることになります。
集落から連れ去られた女子供たちは、籠城した山賊の食糧となっていたといいます。
島津軍は山賊を一人残らず殲滅し、六ヶ村城も破壊しました。
しかし、六ヶ村城を解体しなかったのは、幕府の一国一城令に背くと捉えられかねません。
そのため、一連の事件は公にはされなかったと伝わります。
まとめ
六ヶ城村城は堅牢であるがゆえ、室町時代から戦国時代に攻略を試みた多くの兵士たちが戦死しています。
さらに廃城後の凄惨なできごとから、「魔境」と恐れられていました。
六ヶ村城トンネルの怪現象は、史実を人々が忘却しないように起きているとも考えられます。
場所
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