勝軍地蔵というのは、鹿児島県垂水市にある仏像です。
現在残るものでは県内最古といわれ、御堂に大切に安置されています。
由緒
勝軍地蔵は1506年、当時の領主・肥後氏が造ったといわれています。
子孫繁栄、武運長久、領内安全を祈願したものです。
現存する鹿児島県内で最古の仏像といわれています。
肥後氏は、平氏の末裔で種子島へ逃れていましたが、室町時代に垂水に移っています。
その後、高城を居城として250年に及び、周辺を統治しています。
中世の垂水
中世の垂水には多くの豪族がいました。
高城 | 肥後氏 |
本城 | 伊地知氏 |
牛根城 | 池袋氏 |
田上城 | 梶原氏 |
次第に伊地知氏が勢力を増して、1522年に肥後氏は滅亡しています。
伊地知氏は、源頼朝の重臣・畠山重忠と同族です。
垂水において源平が再戦し、再び壇ノ浦の戦いと同じ結果となりました。
高城周辺には、一度ならず二度も敗戦した平家一族の怨念が渦巻いているといわれます。
戦国時代の争乱
肥後氏が滅んだ後も、垂水では豪族同士の争いが続きました。
禰寝院 | 禰寝氏 ( ねじめし) |
高山城 | 肝付氏(きもつきし) |
鹿児島内城 | 島津氏 |
高城周辺で戦死したのは、1万人を超えるといわれています。
争乱は、1574年の島津氏と肝付氏の戦いで、島津氏が勝利するまで続いています。
1599年、垂水城に垂水島津氏が入り、ようやく落着きを取戻します。
戦国時代には、勝者の武士は何人相手を倒したかで報酬が決まっていました。
証拠として相手の耳を、切り取り証拠として持ち帰っていました。
高城から南の柊原に抜ける道に、みんけん坂とよばれる坂があります。
本当のところは、耳切坂とよばれていたことに端を発しています。
本当に怖いか?
平家の怨念と戦国時代の争乱からか、勝軍地蔵一帯は霊の出現ポイントとして知られています。
訪れてみると、勝軍地蔵の奥は墓地になっています。
高城の断崖がせまり、道も決して広くはありません。
勝軍地蔵のお堂に横には、地域の公民館がありますので、夜間の集会などにも使われるはずです。
しかし、日が暮れてから訪れるのは気が進まない雰囲気でした。
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