嵯峨里観音堂 家を火災から守り、子どもの健康と幸せを守る観音さま
嵯峨里(さがり)観音は、相良三十三観音霊場の6番札所となります。ご本尊は、十一面観音坐像です。家を火災から守り、子どもの健康と幸せを守ってくださる、ありがたい観音さまです。江戸時代中期の作とされ、1752年に豊前中津の仏師が彩色しています。
嵯峨里(さがり)観音は、相良三十三観音霊場の6番札所となります。ご本尊は、十一面観音坐像です。家を火災から守り、子どもの健康と幸せを守ってくださる、ありがたい観音さまです。江戸時代中期の作とされ、1752年に豊前中津の仏師が彩色しています。
十島観音は、相良三十三観音霊場の14番札所となります。観音堂の由来となる蓮花院では、1627年に一向宗の信徒がいたことが発覚し大事件となりました。薩摩藩や人吉藩では一向宗を禁止していて、信者の家からは仏像仏具が押収され、十島菅原神社で焼却されました。
蓑毛(みのも)観音は、相良三十三観音霊場の15番札所です。別名「ウトんかん」ともよばれ、長寿・家内安全にご利益があるとされています。60歳の還暦を迎えた人が、長寿と家内安全を祈り、「奉寄進」の立て旗を納める習慣が残っています。
深水観音(ふかみかんのん)は、相良三十三観音霊場の16番札所となっています。水に対する祈願と、堤を守る仏としてまつられています。境内には、相良藩の家臣、深水頼方宗芳のお墓があり、「歯のかみさん」として有名です。
上園(うえんそん)観音は、相良三十三観音霊場17番札所です。子どもを病気から守ってくれる観音さまであり、古くから牛馬のお守りとしても信仰されてきました。上園のネイティブな読み方が「うえんそん」であり、観音さまの呼び名としても定着しています。
廻り観音は相良三十三観音霊場の18番札所です。三十三観音霊場の中でも絶景ポイントとされているのは川辺川の眺めです。近くに「河童の墓」があります。相良村にはカッパにまつわる伝説が残っていて、川辺川にはカッパが住んでいるといわれています。
覚井(かくい)観音は、相良三十三観音霊場の22番札所です。近くの上手観音も22番札所となので、スルーしないようにご注意ください。1955年(昭和10年)から、エンブリー博士という人類学者が、日本の農村研究のため住んでいた住居のすぐそばになります。
上手観音は相良三十三観音霊場の22番札所です。岩立観音ともよばれています。子供や妊婦を守る観音さまとして信仰されています。近くに「おいちの墓」があります。こちらも妊婦と子どもの守り神として崇拝されていますのでセットでのお参りをおススメします。
植深田観音は、相良三十三観音霊場20番札所です。本来の参道は、観音堂正面の石段です。しかし、石段は崖のような急斜面に作られています。そのうえ石段が摩耗していて危険なため、現在は通行禁止となっています。観音堂には西側(石段に向って左側)から迂回して入るようになっています。
荒茂山勝福寺跡にある毘沙門天像は、文字通り「勝って福をなす」戦いの神様です。荒茂毘沙門堂とよぶこともあります。戦いの神様で人々に勝利をもたらすと伝えられます。受験や試合や選挙など、すべての勝負ごとにご利益があるとされています。
土屋観音堂は相良三十三観音霊場の31番札所となります。一乗寺は江戸時代が終わるまで続きましたが、明治維新後廃寺となりました。寺院には観音堂と古塔碑が残りました。これが現在の土屋観音堂です。鎌倉時代の聖観音菩薩坐像と平安時代の地蔵菩薩立像が安置されています。
最初に人吉球磨地域に入国したのは多良木荘の相良頼影であり、もともとの相良家の宗家(そうけ・本家)は多良木相良家でした。相良氏が最初に当地へ入ったルーツが多良木相良氏関連の史跡で確認できます。残念ながら、球磨川の改修工事で頼影館の建物は現存しません。