轟小学校跡

祁答院町立轟小学校 宇都郷の住民によって守られた石塔群

轟(とどろ)小学校は、かつて鹿児島県薩摩川内市祁答院(けどういん)町にあった公立小学校です。

学校跡の石碑や隣の墓地の石造群からは、この地域の歴史が感じられます。

祁答院町の小学校

轟(とどろ) 小学校の場所は、2004年(平成16年)の市町村合併により薩摩川内市となっています。

閉校当時は、祁答院(けどういん)町立の小学校でした。

祁答院町は1955年(昭和30年)に3村が合併して発足しています。

  • 黒木村
  • 大村
  • 藺牟田村

祁答院町には、5つの小学校がありました。

そのうち、旧大村には上手地区と下手地区があり、3校は大村の小学校でした。

  • 黒木小学校 黒木
  • 上手小学校 上手
  • 大村小学校  下手
  • 轟小学校 下手
  • 簡牟田小学校 藺牟田

1977年(昭和 52年)に、下手にあった2つの小学校が統合し、大軣(だいごう)小学校が新設されます。

以後、祁答院町にある小学校は4校となりました。

校内

閉校から40年以上経った学校跡です。

しかし、学校らしい雰囲気はそのままです。

さすがに旧校舎は残っていません。

敷地内には、轟悠休館という建物が建っていますが、新しい建物のようです。

国旗掲揚台周辺に、石碑群が建っています。

石碑は轟小学校の記念事業で建てられたものです。

新旧そろっていますが、古いものはすごい年代物です。

校舎の落成記念の碑と思います。

大正13年の文字が彫ってあります。

こちらは比較的新しい「希望の碑」の裏面です。

石造の門柱もしっかり残っていました。

原口方柱塔婆・千手観音菩薩

轟小学校跡地の脇の農地の一角に、墓地があります。

入口には石塔碑群が並んでいます。

そこにあった説明版によると・・・

左から原口方柱塔婆・日輪大日如来・大山祇大神・千手観音菩薩のようです。

石塔碑群は、もともと大村の大応寺にあったものです。

明治時代に入り、廃仏毀釈(はいふつきしゃく)を免れるため、地域のお墓の中に移したようです。

廃仏毀釈というのは、明治初期に出された神仏分離令に端を発した、仏教寺院を削減する動きのことです。

千手観音は、京都の大覚寺と縁があるといいます。

これらの石塔群は、決して一族のものではなく、宇都郷(現在の祁答院町大村)の住民たちによって800年も守られてきたものです。

沿革

1879年(明治12年)龍石小学校として創立
1886年(明治19年)龍石簡易小学校へ改称
1892年(明治25年)轟尋常小学校へ改称
1941年(昭和16年)轟国民学校へ改称
1947年(昭和22年)祁答院町立轟小学校へ改称
1977年(昭和52年)大村小学校と統合し大東小学校を新設
閉校

場所 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手

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