富隈 (とみぐま) 城というのは、鹿児島県霧島市にある城跡です。
薩摩国の城は強固な守りの山城なのに対し、富隈城跡は平野部にある平城です。
富隈城とは?
島津家第16代当主島津義久は、豊臣秀吉の九州征伐により強制的に隠居に追い込まれています。
1595年から、鹿児島の内城を去ることになった義久公が住んだのが富隈城です。
城とはいっても丘の上に屋敷が建てられただけで、防衛面では非常に弱い城でした。
これは、豊臣秀吉に配慮したものといわれています。
石垣は肥後国八代の石工が積んでいて、肥後隈本藩主・加藤清正が寄進した清正岩という巨石が残ります。
1604年には、国分城の築城により廃城となっています。
大手門はそのまま、NHK鹿児島放送局の放送所の門になっています。
島津義久
島津義久は、薩摩国・大隅国・日向国の三州統一を果たした戦国武将です。
その勢いは止まらず、肥後国(現在の熊本県) 筑前国(現在の福岡県) に侵攻し、九州統一を目前にしていました。
豊後国(現在の大分県) に攻め入った後、豊後国領主・大友宗麟は、豊臣秀吉を頼っています。
豊臣軍は、20万人を超す兵を九州に送り込み、島津軍を薩摩国へ押し戻しています。
1595年、島津義久は、豊臣秀吉に強制的に隠居させられています。
しかし隠居とはいっても、薩摩藩の中では絶大な権力を握ったままでした。
1602年、島津義久は正式に島津忠常に当主の座を譲ったものの、その後も家中に発言力を残していたといわれています。
本丸
富隈城の最頂部からは、錦江湾と桜島が見えます。
少し西を見ると鹿児島のある薩摩半島が見えます。
それから少し東を見ると大隅半島が見えます。
北には霧島の山々が見えます。
つまり、自国の領内を見渡せる場所です。
義久公がなぜここに城を築いたのか、わかったような気がしました。
富隈稲荷神社
城内にある稲荷神社は、築城のさい島津家の氏神である稲荷神を勧請したものです。
城跡の公園も、稲荷山公園といいます。
御祭神は6柱です。
築城前には住吉神がまっつてありましたが、稲荷神と島津家の始祖夫妻を勧請しています。
宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのもこと)
底筒男命(そこつつのおのみこと)
得仏(島津忠久の法名)
得仏夫人
場所 鹿児島県霧島市隼人町住吉
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