隼人塚

隼人塚 大和朝廷に抵抗した隼人たちを慰霊する石造遺跡

隼人塚というのは、鹿児島県霧島市にある仏教遺跡です。

隼人塚

五重石塔3基と武人石像4体は、平成時代に造られたものです。

四天王像

隼人塚 五重石塔3基と武人石像4体

隼人塚のメイン建造物は、五重石塔3基と武人石像4体です。

隼人塚の持国天像
持国天像

隼人塚は、平安時代後期に正国寺の前身寺院内に建てられたというのが有力説です。

隼人塚の増長天像
増長天像

大和朝廷と争った、隼人の兵士たちを慰霊するための建造物と考えられています。

隼人塚の広目天像
広目天像

他にも諸説あり、はっきりした経緯がわかっているわけではありません。

隼人塚の多聞天像
多聞天像

武人石造は四天王像といわれます。

隼人塚 増長天像と広目天像

4像ともに兜をかぶっているのは隼人塚の特徴で、珍しいとされています。

隼人塚 持国天像と多聞天像
持国天像復元前から立っていた
増長天像持ち出されたものを再配置した
広目天像西塚に埋もれていた
多聞天像塚に埋もれていた
隼人塚 五重石塔3基と武人石像4体

そもそも隼人とは?

熊襲伝説の説明板

隼人というのは、古代の大隅地方に住んでいた人々です。

隼人と熊襲の説明板

古代の大隅地域は、九州の中でも最南の辺境地で、地理的にも孤立していました。

隼人の定義の説明板

また、南方文化の影響から生活様式も異なっています。

隼人塚

さらに、言葉も通訳がいないと通じず、異民族的な扱いを受けています。

隼人塚

大和朝廷の律令制度は稲作を前提としていて、隼人には全く合いませんでした。

反乱を起こし大隅国府を襲う隼人たち

そのため、隼人たちは大和朝廷に大反発していました。

隼人塚史跡公園

修復された石造建造物

1930年(昭和5年)の隼人塚
1930年(昭和5年)の隼人塚

隼人塚の五重石塔は、昭和時代まで長年風雨にさらされ、欠落し損傷が激しかったといいます。

1940年(昭和15年)の隼人塚
1940年(昭和15年)の隼人塚

一方の武人像も一体だけが立っていて、持ち出されたり埋没したりしていました。

1951年(昭和26年)の隼人町勢要覧の表紙
1951年(昭和26年)の隼人町勢要覧の表紙

1970年 (昭和45年)に修復されてはいましたが、モルタルで外観が損なわれていました。

1956年(昭和31年)の隼人塚
1956年(昭和31年)の隼人塚

1992年 (平成4年)から、本格的な修復作業に着手し、発掘調査が行われます。

1992年(平成4年) 修復前の隼人塚
1992年(平成4年) 修復前の隼人塚

2000 年 (平成12年) に修復が完了したものです。

隼人塚史跡公園

隼人塚史跡館

隼人塚史跡館

隼人塚史跡館は、隼人塚の歴史や由来を紹介する施設です。

隼人塚史跡館 玄関

石造の発掘や修復状況を、写真パネルで見ることができます。

隼人塚史跡館 展示室入口
営業時間9:00~17:00
休館日月曜日(祝日の場合はその翌日)・12/29~1/3
入館料個人団体
大学生 一般150円120円
小中学生80円60円
団体は10名以上
隼人塚史跡館 ロビー

場所 鹿児島県霧島町隼人町内山田 287-1

隼人塚史跡館

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