ウンスンカルタというのは、ポルトガルから伝わったカードゲームです。
どういうわけか、全国で熊本県人吉市だけで、現在も遊び続けられています。
知る限りで人吉市は、ポルトガルとは縁もゆかりもありません。
なぜ、ウンスンカルタが遊ばれ続けたのか、推測も交えてご紹介します。
ウンスンカルタとは?
ウンスンカルタというのは、室町時代にポルトガルの船員たちが遊んでいたカードゲームです。
日本に伝わってからは、日本風にアレンジされています。
全国的には普及した形跡は残っていません。
一時的なトレンドだったのか、長く遊び続けられることはなく、忘れ去れています。
江戸時代の幕政改革、「寛政の改革」で、とばく性の高い遊びが禁止されたため、廃れてしまったという説もあります。
全国的には消滅しているウンスンカルタですが、唯一人吉だけで遊び続けられています。
ウンスンカルタを人吉に伝えたのは、備前藩(現在の岡山県)の姫といわれています。
人吉に嫁いできたときに、嫁入り道具といっしょに持ってきたものといわれています。
うんすんかるた(桐箱)
そのためか、人吉では「備前かるた」ともよばれていたそうです。
なぜ人吉だけで遊び続けられたのか?
ウンスンカルタの遊戯札は、トランプの前身ともいわれています。
とばく性が高いとみられ、幕府は幾度となく禁令を出しています。
まずは、人吉が山に囲まれていて、ほかの娯楽がなかったため遊び続けられたという説です。
同時に、人吉盆地まで幕府の目が届かなかったという説があります。
人吉藩主の相良氏が、遊戯に寛大であったため、厳しく取り締まらなかったという説もあります。
実のところは、すべての説が複合的にからんでいるのではないかと思っています。
近代の状況
ウンスンカルタが人吉で盛んに遊ばれていたのも、昭和時代の初期までです。
娯楽が多様化してきたため、人吉でも消滅しかけていました。
1965年(昭和40年)に、熊本県の重要無形文化財に指定されました。
このときに、遊び方を知っているのは、一部の高齢者だけになっていました。
鍛冶屋町
人吉市鍛冶屋町とは、文字通り鍛冶屋さんが多くあった町です。
現在でも、伝統的な街並みが残っています。
鍛冶屋の職人さんたちが仕事を終わりに遊んでいたのがウンスンカルタです。
ウンスンカルタの保存に乗り出したのが、「鍛冶屋町通りの街並み保存と活性化を計る会 」でした。
平成19年には「 ウンスンカルタ の家」をオープンしています。
「 ウンスンカルタ の家」 では、カルタと保存会の活動記録を展示しています。
毎年、秋にはウンスンカルタの全国大会が開催されています。
日本遺産 人吉球磨
ウンスンカルタは、日本遺産人吉球磨の構成文化財になっています。
幕府禁制のなか、人吉藩主の相良氏は、余興を大目に見ていました。
そのため、人吉だけでウンスンカルタが遊ばれ続けたというストーリーです。
鍛冶屋町とアニメ聖地
鍛冶屋町は、その街並みから、人吉でも観光客が多く訪れる場所です。
人吉市のなかでは、比較的象徴されるようなスポットで、アニメでも登場しています。
夏目友人帳
3期第3話「偽りの友人」で、夏目たちが歩いていた場所のモデルが鍛冶屋町といわれています。
まいてつ
ビデオゲーム「まいてつ」の聖地でもあります。
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「夏目友人帳」も「まいてつ」も、ほぼ同じ風景です。
どこの観光地でも、そこを象徴するような風景があります。
鍛冶屋町では、ここが最もポピュラーな場所です。
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